1: はじめに

 日本でも高度先進医療のおかげで、これまで、不治の病とされた難病も次々と 改善され、多くの患者さんがそれの恩恵を蒙るようになった。心臓移植も我が国では 数十年ぶりに再開され、重い心疾患を持った方も外国の治療に頼ることなく、国内で 移植を待つようになった。遺伝子治療も確実に浸透して来ている。
 私はこういった医療現場に近くて遠い存在ながら、四十年近く国立大学の実験動物 技術者として働いてきた。ひとつの歴史の中には悲喜こもごもの体験を通して、色々な 人と出会いと別れを繰り返すものだが、その中でも私にとって一生涯、忘れぬ事の出来ぬ 一人の女性がいた。名前はアン・ロス。突然、目の前に現れ、そして突然、姿を消した 英国人女性。この物語はそんなアンの姿を通じて、人と動物の関わり合いの中で本当に 大切なものは何か?ということを読者の皆さんに考えて頂くとともに、我々日本人が忘れて しまった「大切なもの」を取り戻していただくために綴るものである。




2: 序章

 三十数年前と言えば、実験動物学の黎明期の時代で、まだ、学問としては完全に 体系化しておらず、学会もなく、研究会としての存在だけであった。 大学の実験動物施設では「動物舎」という呼称の飼育施設と数室の実験室が存在する 程度で、空調も無い環境で汚物にまみれながら研究者も技術者も仕事をしていた。 使用される動物も本来なら、遺伝学、微生物学的コントロールされたものを使用するべき であったが、入手するには大変高価で、当時の少ない予算では到底、雑動物に頼らざるを 得なかった。兼業農家で飼育されたラットやウサギ、自治体の収容所から手に 入れた犬や猫など、大半がそのような由来の動物を使って実験を行っていた。 アンが訪れたのはちょうど、そんな時代であった。
 欧米ではすでにコントロールされた動物を使用し、動物福祉の法的な整備も半世紀前 には整っていた英国からの訪日であった。彼女は驚き、そして苦しみ抜いた。
 それでも頑張り通し、多くの関係者に動物の命の大切さ、尊さを自らの仕事で訴えた。
 残念ながら、志半ばで体調を崩し、天国に召されてしまったが、彼女の撒いた種は確実に 日本中に浸透し、やがて芽を吹いた。そのような外国人女性が日本にいたことはすでに 忘れ去られて久しいが、「実験動物の犠牲の延長に人の命がある」と常々言っていた 彼女の思想をこの物語を読んで頂いた方全員に語り継いで頂ければ幸甚である。




3: 実験助手と公務員一年生

 (実験助手時代)
 アンが来日した頃の時代考証として、私の実験助手時代と正式職員になった頃の 時代について触れておきたい。
 1964年にオリンピックが日本で初めて行われた二年後、それまで勤めていた 会社の経営悪化が理由で退職して、長兄が勤務する大阪大学医学部付属病院に 実験助手として働くことになった。実験助手と言っても医者のポケットマネーや 研究費から出されるアルバイト職員みたいなもので、人事から出された身分証には 実験補助員と書かれてあったのを覚えている。
 仕事内容は放射線科の地下実験室で飼育されている犬に半減期の短い放射性物質を 投与して、散歩させるたびにそのつど、排便した糞を持ち帰って、特殊な装置で 糞便中に取り込まれた放射線物質の排出量を調べることだった。
 当時は放射性物質の取り扱いもそれほど規制されていなかったが、現在であれば 病院の中庭で排便させている犬の糞便中にそのような物質が取り込まれていると 判っただけでも問題になっただろう。
 いずれにしても、民間企業とはまったく違った雰囲気の中、その頃まだ走って いた大阪市電に乗って堺市の自宅から通ったものだ。
 当初は大学病院なのに個人の名前で講座名が書かれてあるのを不思議に思ったが、 この頃は教授の力が絶大な時代でその教授の名前で「**内科」とか「**外科」と 謳っており、俗に「大名行列」と呼ばれていた総回診には教授を先頭に助教授、講師、 助手、副手、婦長、などがぞろぞろと歩き、それを迎える入院患者さんが事前に婦長 などから言われた整理整頓や新しい服の着替えなどを済ませていた光景を思い出す。
 まさにベストセラーで有名な「白い巨塔」の世界がそこにあったのだが、病弱の 患者さんが正座をして教授を迎える姿は滑稽を通り越して哀れであった。  現在でも医歯薬系大学における教授の力は絶大であるものの、この頃に比べれば 随分と民主的になったと思っている。
 毎日、犬の散歩と排便処理ばかりを続けて、いいかげんにうんざりしていると、 タイミング良く、向かいにある外科の実験室で研究しているドクターから 「どうや、こちらで仕事しないか?」と声がかかった。
 毎日、心臓移植に関係した基礎的な実験が繰り返されており、放射線科に比べて、 何かと派手で、私はすぐにオッケーの返事をした。とは言っても長兄の立場も あるので、一応、放射線科のドクターと外科のドクターの話し合いで、異動する ことになった。給料もそれまでの一ヶ月7千円から8千円にアップされたので、 一生懸命、働いた。動物実験の準備から術中の手伝い、後片付けを主体に心疾患で 手術を余儀なくされた患者さんに移植するための大動脈弁を法医学教室や病理教室の ご遺体から貰って来て、綺麗にトリミングして、冷蔵庫に保管する役目から患者 さんの手術中の血液ガス測定、手術後の人工心肺の洗浄、図書館での文献探しなど、 本当に身体が壊れるのではないかと言うくらい働いた。
 特に洋書の文献探しは英語も出来ない私には苦痛であり、やっと見つけてコピー をして来てもページが間違っていて良く叱られたものだ。  今でこそ、多くの若い女性達が医局の秘書に雇われ、そのような雑用は彼女達の 仕事になっているが、当時はこのような司書の仕事もやらされたのである。  言い換えれば、私が大阪大学での実験助手兼秘書の第一号であった。
 それと、内外からの電話の取次ぎも嫌だった。自宅には電話も無かったので 応対の仕方がわからないのである。中でも外国人からの電話は研究者不在の場合、 悪いと思いながら、途中で切ることも多かった。
 人工心肺にはディスク型とシート型の2種類があり、シート型はビニール様の中に 特殊な繊維が入れられ、ポンプで血液循環させる使い捨てタイプのものだが、 ディスク型は百枚近いステンレス皿がガラス製の筒に組み込まれており、その皿が 回転して中に入っている血液を循環させるタイプのものだった。 ボルトナットをはずして、一枚づつ洗浄するのだが、高価なガラス筒を落として 割って良く叱られたものだ。
 そのような作業がすべてが同時進行で行われるため、複数のドクターから声が かかり、実験中でも許可を貰って、手術室に服を着替えて入室し、皿洗いをした。  優先順位を考えながら仕事をこなしていくのだが、慣れるまでは大変だった。
 早朝から実験用の犬を10頭、屋上の飼育室から地下の実験室に運搬して、2頭を 残し全部、輸血用の血液採取として、8頭ぶんの全採血を行った後、ドナーと レシピエント用の犬は麻酔をかけ、人口呼吸器をセットして、いつでもスタンバイ の状況にしておくのだ。ドクターが忙しい時は、開胸手術まで行い、移植実験が 可能な状態にしておき、研究者の登場を待った。
 こういう準備段階のおかげで、いつのまにか最先端の技術を習得していったのだが、 その頃は大阪大学病院の心臓外科医が日本でも指折り数える優秀なドクターとは まったく意識していなかった。
 夜は仕事が終わってから、憧れだった高校の夜間部で勉強し、それが挫折する ことなく、4年間続いた。この頃のエピソードとしてはこんな思い出がある。  屋上にある実験犬の飼育室から別棟の実験室に犬を移動している時であった。  患者さんが多くいる外来棟を通ってエレベーターに乗った際に、突然、犬が鳴いた。  一緒に乗っていた患者さんが私に質問した。
 「ここは獣医病院もあるのですか?」  「この犬はどこが病気なんですか?」  私は答えに窮しながらも、これから実験するとは言えず  「エエ、ちょっと調子が悪いのでこれから治療します」  「そう、可哀想に、ワンちゃん、頑張ってね」と言う会話を交わした。
 患者さんにすれば私は血だらけの白衣を着てるし、てっきり獣医だと思ったに 違いない。足の動脈を露出切開して、チューブを入れ、最後の一滴まで血液を 搾り取るのだが、最初の頃は死んでいく犬に対して、そのたびに胸が痛んだが、 同じような作業を数年間も続けていると感覚が麻痺し、ルーチンワークとして 平気になった。まして、医者から「佐藤君の技術は誰にも真似が出来ない」などと、 おだてられ、完全に有頂天になっていった。患者さんからの質問に対しても、 素直に答えることが出来ず、如何にも自分が獣医になったような錯覚を起こして いた時代でもあり、今、振り返れば顔から火の出るような思いになる。
 当時、犬を運んでいたエレベーターは手動式で専用のエレベーターガールがいた。  犬を運ぶたびに彼女達から「臭い」とか「うるさい」とか言われるので、早朝 出勤して自分で守衛室に保管しているエレベーターの鍵を借りに行ったことも度々 あった。冬季はエレベーター内に火鉢が置いてあり、今のように密閉式でないため、 酸欠で問題になるようなことはなかったが、それでも犬の鳴き声と臭いはたまらな かっただろう。



(公務員一年生時代)
 高校卒業を間近に控え、いつまでも実験助手ばかり続けていられないので、 真剣に次の就職のことを考えていた矢先、当時、中央的なサービス機関として、 動物実験室があり、そこのスタッフが辞めたので来ないかという誘いがあった。  もちろん、正式採用としての話である。行政職二という現業職員扱いであったが、 一応、国家公務員に変わりはない。有難くお受けすることにして、4月1日から 実験室の管理者として、スタートした。ここで、当時の国家公務員の職制と 実験動物技術者の位置付けについて簡単に触れておきたい。
 一般行政職として一と二に分けられ、一は一般事務職員と高度専門機器を 取り扱う技術職員、二は守衛、焼却場職員、患者さんのシーツや手術着などを 洗うリネン室職員など現業職員が含まれている。  実験動物に関係した飼育職員もこうした現業職員として扱われ、私も最初の 三年間は行二職員だった。そのうち、色々な資格を取得したので、行一になれたが、 全国の実験動物関係職員はつい最近まで行二のままで定年を迎える人が多かった。
 このような大きな病院で職種によって貴賎はないと信じていたが、行一になる まで、同じ職員でも差別的な発言や行動が多かった。  それは服装にも現われ、現業職員は作業服、行一は背広ネクタイ姿か白衣着用 というのが一般的なスタイルだった。行ニ職員は一目でそれとわかる服装には 抵抗を感じていた。私は実験助手の頃から白衣を着用して仕事をしていたので、 行二になっても白衣で仕事をしていたが、それだけで、生意気な奴と行一職員に も行ニ職員にもレッテルを貼られたことが何度もあった。
 まして、注射器を持ったりしていると「医者の物真似」と揶揄されたし、 行一になってからも、影では色々と言われていたようだ。  このような体制では自分より下位に属する者に対して、強い態度を示すが、 上位に対してはものも言えない雰囲気が蔓延していた。頂点となる医者は 雲の上の存在であり、行一の職員に対しても行二の職員はへつらうしかない状況 だった。私も公務員一年生であるし、誰が偉いさんかわからないので、廊下で 出会う一般事務職員にまでペコペコしていたことを思い出す。
 古い行ニ職員の中にはそういったストレスを発散するため、行二の新参者に 対して横柄な態度を取ったり、反発することが出来ない飼育動物に当たったり、 常に自分より下位の者に目線を向けている人いたのも事実だ。  ただ、この現業員制度も徐々に無くなり、いつでも交代要員を要求出来る 外注職員が最近の職場環境の主流になって来たが、これも大いに問題があり、 責任体制の範疇が極めて複雑になっていることも確かである。
 実験室の管理者としてのスタートは掃除から始まった。  当時の実験室は旧結核病棟の3階にあり、手術用の部屋が2室と麻酔などを 行う処置室、レントゲン撮影の現像室としての暗室が1室、管理室として3畳 くらいの部屋あった。それ以外には屋上にはプレハブで作られた術後回復室と 言う名の犬用ケージが4台置かれている部屋もあった。
 この建物の地下は患者さんの遺体安置室兼解剖室と霊安室、それに職員用の 風呂場があり、いつも線香の匂いが充満していた。  エレベーターもないので、実験用の犬を運ぶ時はスロープ状になっている 通路を専用運搬車で運んでいた。実験室管理と言えば聞こえは良いが、毎日が 掃除の明け暮れだった。最初の日に各部屋を見て驚いた。
 確か、床はタイル張りなのにそれが見えないのだ。長年、放置されていたの か、動物の排泄物が折り重なってこびりついている。  窓ガラスは壊れ、発泡スチロールで目張りをしてあるし、手術用の無影灯も 血だらけだった。研究者はこのような環境の中で長靴を履いて実験していた。  実験助手をしていた部屋も相当なものだったが、ここはまるで便所だと 思った。とにかく、環境の改善から始めることにして、タイル張りであること の確認作業から進めて行った。特殊なヘラで汚物を掻き取って、壁や機器に 飛び散った血液をふき取り、何とか格好がつくまで数ヶ月要した。
 徐々に掃除の要領を覚え、実験用の機器操作とメンテも出来るようになる まではさらに長い時間がかかった。実験室の管理もようやく慣れて来たある日、 私にとって生涯、忘れることの出来ない人との出会いがあった。  一人の英国人女性であるが、名前をアン・ロスと言う。 彼女がこの物語の主人公で、この出会いが私のその後のライフワークを語る 重要な出会いになるとは、その時は思いもよらなかった。


4: アンとの出会い

 私とアンが出会ったのは旧結核病棟の屋上に作られた実験後の犬を収容する術後回復室 であった。その日も手術実験室の清掃が終了し、屋上の回復室の清掃にあたろうと、 階段を上ってゆくと、見慣れない外国人女性がホースを持って、室内を洗っていた。
 時々、留学生や外国人研究者が来ているので、たぶん、そのたぐいかなと思ったが、 これまでの経験では清掃までしに来るような学生や研究者は見たことがない。
 そのうち、こちらに気がついたらしく、「ニッコリ」笑って挨拶をしてきた。 もちろん、横文字なので、何を言っているかさっぱりである。
 愛想笑いを返しただけで、不信感を抱きつつ、その日は管理室に戻った。 ところが、翌日も来ているのである。同じように箒を持って室内を綺麗に清掃し、実験中の 犬にどこから持ってきたのか、缶詰を開けて牛乳とともに与えているのである。
 研究者の犬を管理している立場上、私には責任があるので、むやみやたらにエサを与えて 貰っては困るのだが、如何せん、言葉のコミュニケーションが出来ない。
 仕方なく、動物管理委員会の先生に相談することにした。その結果、ある動物委員会の 先生が仲立ちとなって彼女が来ていることが判明したのである。
 公的ではないが、法人の動物福祉団体からの要請で、是非、アンの希望を叶えさせて やって欲しいと言われたので、来て貰ったと言うことであった。




5: アンの目的

 アンは英国の王立動物福祉協会のメンバーでもあったが、日本の動物福祉協会の メンバーにも登録していた。目的を同じとする両協会は連絡を取り合ってアンの来日を実現 させたのである。殆どが私費の渡航であった。日本のトップと言われる大学を皮切りに、 東北地方の大学で啓蒙活動をした後、三番目に私の勤める大学に来たのである。
 その前は欧米諸国でも動物福祉政策が遅れている国で活動していたらしい。
 当時の我が国の大学では動物実験の現場は悲惨を極めるものであり、飼育室や実験室は 冷暖房も無く、夏は炎暑地獄、冬は凍るような寒さの中で人も動物も同居していた。
 犬や猫のエサは近くの市場や職員食堂から貰った残飯を大きな釜で炊き与えていた。
 細かく分別できないので、煙草の吸い殻やコップのかけらなども混入しており、夏場はすぐに 腐って饐えた匂いが充満していた。只同然で貰ってきた実験用の犬や猫もこのような環境では、 まともに生きてゆくことすら叶わず、多くの生命が実験を待たずして日々死んでいった。
 何とか持ちこたえて実験に供された動物も成果の日の目を見ることもなく、途中で死んだり、 処分された。屋上にあった犬の飼育小屋は吹きさらしで、風邪を遮るものもなく、凍死するものや 四十度以上にもなる床からの輻射熱でどんどん、体力が消耗し、健康体と思える犬は一匹も いなかった。検疫体制もなかったため、ジステンパーなどが蔓延するとたちまち伝染し、多くの 幼犬が死んでいった。これらの現状は外来患者さんや入院患者さん、近隣に住む人達の口から 動物福祉協会の関西支部を経て、本部に届いており、度々の改善要求が出されたが、何しろ、 実験に使用するゴム手袋や包帯なども患者さんのお古を何度も洗って再利用しているし、 メスやハサミなどは錆びた物ばかりという状況でとても実験動物への配慮などは皆無であった。
 このような状況は私の勤務する大学だけではなく、当時の大学でも多かれ少なかれ、 同じような問題を抱えていたし、国立大学の医学部でこんな状態なのだから、他は推して べかざるであった。そういった情報を英国で聞いたアンはいても立ってもいられなくなり、 何とか日本の実験動物の現状を見た上、自分で出来るところがあれば改善したいと思い、 来日したのである。




6: 真のアニマルテクニシャン

 アンが毎日職場に来るようになって約3ヶ月が過ぎた。 会えば一応、挨拶をするようにはなったが、私はそれでも彼女に対して気を許してはいなかった。
 ある日のこと。処置室で繋がれていた犬が大きな悲鳴をあげている。
 私は「またか!」というように、処置室に向かうと研究者が3人がかりで犬を押さえつけ、 麻酔処置を行おうとしているところであった。口角に泡を溜め、目は血走っている。 首に食い込んだ針金は今にもちぎれそうである。何度かチャレンジしたのであろう。 注射器が床に転がり針先は大きく曲がっている。
 私はこれまでの経験で麻酔処置には少なからず自信があったので、研究者に声をかけ、 ひとまず犬のそばから離れて貰った。首にかけられた針金を短くし、後肢を思い切り引っ張って、 注射しようとしたその時、後ろから「ダメです!」という声がした。
 振り向くとアンが悲しそうな顔をして立っており、片言の日本語とジェスチャーで犬から離れて 下さいと言っている。そして、私の持っている注射器を渡して欲しいとも言うのだ。
 私はアンに同じように身振り手振りで「この犬は興奮しており、危険だから貴女には無理だ」と 言ったのだが、彼女は聞き入れてくれなかった。
 何回も押し問答をしたあげく、とうとう、アンに注射器を渡す羽目になってしまった。
 もし、アンがイヌに噛まれそうになれば助けようと、側で見守る事にした。
 すると、彼女は注射器を白衣のポケットにしまい込み、イヌの側に座ってしまったのである。
 床は糞尿と血液にまみれているのもお構いなしであった。
 イヌよりも低い姿勢になった彼女はしきりにうなり声を出すイヌに話しかけた。
 英語であるので何を言っているのか、わからないが、たぶん、「可哀想に、怖がらせてゴメンね」 とか、「私が痛くないようにしてあげるね」とか言っているのであろう。
 常に優しい言葉を投げかけ、徐々にイヌの近くに寄っていった。
 そして、興奮が収まった頃にアンの手のひらに自分の唾液を付けて差し出したのである。
 すると、どうであろう、あれだけ、うなり続けていたイヌがアンの唾液を舐めたのである。
 舐めさせながら、一方の手で優しく、頸背部から頭頂部にかけて撫で回し、すっかりなつかせて しまったのであった。もちろん、何の抵抗も無しに前肢からの麻酔処置はスムーズに終わった。




7: 反省

 私はこの光景を目にして、思い切り後ろから頭をぶんなぐられたような気がした。 これまで、このような処置は大学の中で自分がトップだと思っていた。
 医者にも出来ない技術を有していると思っていた。
 ところが、アンに比べて私のこれまでの技術は何だったのだろうと完全に落ち込んで しまった。まさに、井の中の蛙という自分を思い知らされたアンの素晴らしい処置であった。
 この日以来、私はアンの信奉者になり、麻酔技術はもちろん、実験動物技術に関する ことは何でも相談することにした。おかげで、これまで自分で勉強してきた日本の専門書 には疑問を感ずる部分が多く感じるようにもなった。 言葉は相変わらず通じなかったが、アンの真の目的とする「技術者と言えども動物福祉の 概念を常に持って動物実験の補助にあたる」という信念が理解できたのである。
「動物を馴らそうとせず、自分から馴れること」「例え、死ぬことがわかっていても絶対に 粗末に扱ってはダメ!」「同じイヌの中にも主人に可愛がられて一生を過ごすイヌもいるのよ」 など、これまで、私が考えたこともないような動物への考え方がその後のアンとの交流で 自然に身につけていくことが出来たのである。




8: 突然の帰国

 アンへの不信感も瓦解し、私の部屋にも来て一緒にコーヒーや紅茶を飲む機会も増えたが、 彼女は別にその技術を誇示するわけでもなく、私が困ったときだけ手助けに来てくれた。 日曜、祝祭日も休まず、清掃作業をやりに来ていたのは当直制度のある飼育関係者から 聞いていた。屋上に約七十頭、私の管理区域に十頭、百頭近いイヌの世話をするのだから、 一日はあっという間に過ぎる。清掃だけではなく、散歩や重症例への術後管理を含めると、 帰るのは毎日九時頃である。私もたまに、実験のお世話をしていて、泊まることがあったが、 朝八時に目覚めるともう、彼女は来ていた。
 アンと知り合ってやがて一年が過ぎようとしたある日のこと。 あれだけ熱心だったアンがふっつりと来なくなったのである。
 最初は体調でも崩して休んでいるのかなと思ったが、一週間たっても姿が見えない。
 彼女の所在に詳しい先生に聞くと、少し体調を崩し、どこかの病院に入院したらしいが、 連絡先もわからないと言うことであった。見舞いにも行けない日々が続き、それからしばらく 立った月曜日の朝、飼育担当者から電話が入った。「忘れてましたが、先日の日曜日にアンの 友人と言う人が来て、佐藤さんに渡して欲しい物があると言って帰って行きました。 何かとても急いでいるようでした」との話であった。私は慌てて、飼育担当者の部屋に行き、 アンからの品物を受け取った。
 中にはハイライトとウィスキーが入っており、手紙も添えてあった。
 手紙には金釘流のカタカナ文字で「サトウサン、アリガトウ、ワタシハイギリスニカエリマス、 イヌコト、タノミマス。アン・ロス」と書いてあった。一瞬、何のことかわからなかった。
 何故、英国に帰国しなければならないのか、何か急用が起こったのかとこの時は彼女が 重い病気を抱えて帰国したなどは思いも寄らなかった。
 最初はまた、日本に来るであろうと楽観的な気持ちだったが、文面を読み直しているうちに、 もしかしたら、もう、アンに会えなくなるのではと思い始めた。再来日するのであれば、 「イヌのこと頼みます」と言うような文章は書かないはずである。何度も読んでいるうちに文字が ふやけて、涙が溢れてきた。彼女はどんな思いで帰国したのだろう?あれだけ馴ついていた イヌ達を残して帰国しなければならなかった彼女の気持ちは今、察して余りあるが、その時は しばらく茫然自失で仕事が手につかなった。でも、彼女の体力と精神力はすでに限界に 達していたのであろう。




9: アンの苦悩

 アンが現れ、去っていったこの一年間の思いで胸がいっぱいになった。
 れっきとした英国のアニマルテクニシャンに対して、横柄な態度を取り続けていた 私に嫌な顔は一切、見せず、会うたびに覚えたての日本語で「オハヨウゴザイマス、 コンニチハ」と笑顔で挨拶をしてくれたアン。糞尿で汚れた毛布や包帯を洗うときに、 私が管理している部屋の洗濯機を使用するように言っても、佐藤さんに迷惑をかけると いけないからと屋上に持っていって、金盥と洗濯板で一生懸命洗っていたアン。
 特に真冬の作業では可哀想に彼女の美しい手はあかぎれやしもやけで痛々しいほど 荒れていた。また、術後経過が悪く、いつ死んでもおかしくない犬の側にいて、一晩中 看病していたアンの姿。それらが走馬燈のように蘇る。
 私との邂逅後も、飼育関係の技術者や一部の研究者とはうまくいかなかったようで、 時々、彼女はそれらの人達ともめていた。決められた固形飼料以外に彼女は自分で 買ったパンや牛乳などを持ち込んで、イヌに与えたりするので、糞の量が多くなり後始末が 大変だという下らぬ理由で拒否される為、しょっちゅう、喧嘩をしていたのを見ているし、 研究者からは実験するたびに扱いが悪いとアンから指摘される為、やりにくくてしょうがないと いうクレームも出ていた。母国の実験動物の現状を見てきたアンにとっては自分がやろうと していることが、何故理解してくれないのだろうと言うジレンマに陥っていたに違いない。
 一日の作業が終わり、私の管理室の片隅にあるイスに座ると、煙草とウイスキーをがぶ飲み していることが日々、増えていった。恐らく私が英語を理解する日本人であればその頃のアンの 悩みを聞いてあげれたかも知れない。うなだれながら、背をかがめ、飲んでいる彼女の姿には とても寂しそうな雰囲気が漂っていた。アンが最後に残していった私へのプレゼントはきっとその 気持ちを代弁して欲しい表れだったのかも知れない。私の職場に来る前も、彼女の活躍を耳に したテレビ局が出演交渉に臨んだ際、録画中であるにもかかわらず、「こんなところに出ている 最中にも犬達は苦しんでいる」と言って、司会者を困らせたという逸話も残っている。 それ程、彼女は動物のことが心配で、現状を訴えても理解できる日本人が少ないと、 見限っていたのかも知れない。何事にも完璧主義で、曲がったことが嫌いな彼女が本国に 帰るということは、よほどの重病だったに違いないが、その時は病気というよりも、 感情の拗れが原因だと思っていた。




10: 悲しい通知

 結局はその頃の無理がたたって肝臓を悪くし、英国に戻る羽目になってしまったのだが、 その後の消息もわからず、数年が過ぎた。その間、アンのような素晴らしい人に出会ったことを 知らせるために、実験動物関係の雑誌や関係者に話をする機会を何度か持ち、如何に日本が 動物福祉に関しては遅れた国であるか、ということも各地で話をさせて頂いた。
 そんなある日、突然、名も知らない方から封書が自宅に届いた。
 差出人は東京の方で、日本語の文章以外にも英語の文章と、以前、私がある雑誌にアンの事を 書いた訳文のコピーもアンの写真入りで入っていた。アンと親しくしていたHさんと言う方で、彼女の 母親が私に書いた文章をわざわざ、訳して送ってくれたものだった。内容はアンの訃報通知だった。
 生前、アンが世話になった私に是非、知らせたいと思い、一生懸命、関係者を捜したあげく、 ようやく、私のところに届いたというものだった。
 アンは帰国後も入院生活を送っていたが、病状が回復することもなく、大勢の友人の見守る中、 天国に召されたと記されていた。最後まで日本のイヌのことを心配し、途中で仕事を投げ出したことに 随分、気にしながらの最後であったことも付け加えられていた。
 「佐藤さんの雑誌に書かれた訳文を読み、日本人でもアンの事を理解する人が何人かいたことが 唯一の救いであり、佐藤さんに感謝している」との母親の言葉には、申し訳ないという気持ちの中で 何故か、ほっとするものがあった。同封されていた写真にはアンが友人の結婚式に出席した時の 写真と、彼女の墓碑、墓碑の横に座っているアンの愛犬の姿が写っていた。




カタカナの墓碑 11: カタカナの墓碑

 美しいドレスを着てニッコリ微笑んでいるアンの 姿を見て、私はアンの母親の気持ちを推し量った。 友人達は結婚して幸せな生活を送っているのに、 アンは一人で日本に行き、苦労したあげく、病気に なって母国に戻ってきた。
 いくら胸中に確固たる気持ちを持って望んだ事で、 他国に行って彼女なりの活動をしてきたと言っても あまりにも、無念だったろう。 周囲に相談する相手もなく、どれだけ寂しい思いを しただろうと娘に寄せる気持ちは 痛いほど、伝わってくるのであった。 最後の文面には、「墓碑にはカタカナでアンの名前を彫ってあります。 もし、貴方や日本人が英国に来ることがあればすぐにわかるようにしておきました」 と書かれてあった。写真をよく見ると、カタカナでアン・ロスと書いてある。 私はこの時、決意した。いつか、必ず英国に訪問して、アンの墓参に行こう。 そして、アンと出会ったことのお礼と日本の現状を母親に伝えようと。




12: 英国へ

 アンが亡くなって十年が過ぎた。 母親とはこの間も文通を続けていたが、末文には必ず、いつか、アンが育った英国に いらっしゃいと書かれてあった。そして、職場も様変わりし、古い建物は取り壊され、 アンが働いていた建物も無くなってしまった。 新しく建った研究棟に立派な動物実験室が設置され、別の建物の屋上にある飼育エリアには 粗末ではあるものの、周囲をブロックで囲んだ飼育室が完成した。
 冬の寒さ、夏の暑さに対処するため、エアコンも設置され、イヌの死亡率が激減した。
 研究者も動物の倫理的取り扱いに注意するようになり、実験中や実験後の死亡率も減少するに 至り、やっとアンの目指していた実験動物への愛護精神も浸透してきた。
 飼育関係者も若い人が台頭するようになり、屋上でのイヌの散歩などは日常業務のひとつ として、ルーチン化するようになった。まだ改善すべき点は多く残されていたが、それでもアンが いた頃と比べて、長足の進歩であった。もし、彼女が生きていたら、その様変わりに驚いたで あろうし、泣いて喜んだに違いない。 毎年、暖めてきた英国への墓参希望は、いよいよ、期を熟してきた。 思い切って行こうと決心し、準備に取りかかった。




猫
13: 対面

 個人的に渡英するとなると、経済的にも かなりの負担を強いられるため、出来るだけ、 安いツアーを利用する事にしたが、なかなか、 思った通りのスケジュールに英国だけのツアー がなかった。仕方なく、他の国へも周遊する 団体旅行に申し込むことにした。
 10日間の旅のうち、スイスの三名峰を訪ね、 最後の二日間はロンドンで過ごすというプランの海外旅行に決定した。 妻と息子も同行するので、夏休みを利用しての墓参だった。 当初目的でなかったスイスの旅は思った以上に快適で、ツアーメンバーも添乗員を 入れて十名。たちまちのうちに仲良くなり、我々の目的を聞くと一様に感心してくれた。
 スケジュールをこなして、いよいよ、英国に到着した夜。ロンドン市内のホテルから、 英語の出来ない我々に代わって、添乗員がアンの母親に電話を入れてくれた。
 明朝、十時頃に訪問するので宜しくと言う内容だったが、電話を切る前に私に受話器を よこしてくれた。私はとまどいながら、簡単な挨拶しかできなかった。 初めてお会いするアンの母親の生の声が受話器を通して伝わってきたが、感動するよりも ドギマギして何をどういうふうにしてしゃべったのかまったく憶えていない。
 翌朝、ホテルの玄関に添乗員が予約してくれたタクシーが止まっており、早速乗り込んだ。 これから先は我々家族だけで、言葉に頼る者は誰もいない。
 運転手は南米系の人で、一生懸命、愛想をふってくれるのだが、私の気持ちは昨晩に 続いて、まったく余裕がなかった。言葉の切れ端に彼の家族のこと、ロンドンではタクシーの 運転手になるには相当、厳しい資格が必要なことぐらいしか、わからず、適当に相づちを 交わしていた。アンの母親は最初に文通を交わしていた頃にはロンドン市内だったのが、 いつの間にか住所が変わっており、市内から約五十キロほど離れた郊外に住んでいると いうことは事前の下調べでわかっていた。恐らくその近くにアンの墓があるのだろうと、 予測していた。二時間ほど走って手紙に書かれていた住所近くに来たのだが、運転手は 目的の家を探すのに自信がないらしい。歩いている人に片っ端から声をかけるのだが、 同じ所をぐるぐる回るだけで、一向に到着しない。約束の時間をはるかにオーバーしてやっと、 たどり着いた。今日一日借り切ってある車なので、運転手に待っていて貰って、玄関の チャイムを押した。さあ、お会いできると思うと、胸がドキドキして、足まで震える始末である。
 扉が開き、銀髪の小柄な女性が転がるように出てきた。私も思わず、駆け寄った。 言葉はまったくいらない。お互いに目を見つめながら、固い握手と抱擁を繰り返した。
 長年の念願がここに来て果たせたと思うと、鼻の奥がツーンとして、涙が溢れてきた。
 イメージとしては大柄な人を想像していたのだが、全く反対で、顔も英国人と言うよりも 日本人のおばあちゃんに似た可愛らしい人であった。
 幼少の頃に亡くなった私の母にも似た感じの人で、たちまち、親近感が沸いた。




庭 14: アンの形見

 家の中に入り、居間に通された。手紙では老人専用のアパートメントに暮らしておられると 言う話であったが、周囲に芝生を巡らし、一戸建ての瀟洒な建物だった。
 キッチンとトイレ、風呂などが機能的に配置され、いかにも福祉国らしく、老人一人が充分、 生活を送れるような配慮がしてあった。
 壁には以前送った掛け軸と私の家にもあるアンの写真が飾られ、ベッドルームには二匹の猫が 寝ていた。一見、寂しい生活を送られているのではないかと危惧したが、芝生の手入れに毎週 お手伝いさんが来てくれるし、アンの妹も家族と一緒に近くに住んでいると言うことで、安心した。
 しばらくすると、紅茶を持って現れ、英国風の美味しいミルク紅茶をご馳走になった。
 持っていった英語の辞書を片手に片言の会話ではあったが、ゆっくりと話をしていただいた。
 壁に飾ったアンの写真を中心に亡くなられたご主人や親戚の紹介をしていただき、やがて、 少し待ってと言いながら、別の部屋に行かれた。
 すると、ロンドン市内を走っている二階建てバスのオモチャと、珊瑚を封印した綺麗なガラス玉、 木箱に入ったものを、持って現れ、息子と妻、私にそれぞれプレゼントだと言って手渡してくれた。
 木箱に入った物はウサギが仲良く並んでいる根付けだった。
 日本の鳥獣戯画に似ている構図なので、聞いたところ、アンが日本で買って母親に贈った物だと 言うことがわかった。それを私にプレゼントすると言うので、あわてて、断った。
 アンの唯一の形見である大事な品を貰う訳にはいかない。
 しきりにやりとりしたが、アンの母親は「貴方が持っている方がふさわしい」と言ってくれたのだ。
 恐らくアンはこれを見たとき、昔の日本人の動物への優しさがにじみ出ている品物として求めた のであろう。それが、実際に日本に来て、あまりの違いように驚き、悲しんだのだが、日本人の 根底にはこのような優しさが隠れているのを知り、母親に贈ったものと想像する。
 有り難く頂戴することにし、我々からも扇子、折り紙などをプレゼントした。
アンの形見  母親はいたく感激して、妻から鶴の折り方などを教えて貰い、完成すると早速、居間の戸棚に 飾っていた。殆ど、一方通行の会話だが人間として心が通い合っていれば言葉なんか必要でないと、 この時、充分に理解し合えたことが嬉しかった。




墓参 15: 墓参

 楽しいひとときが終わって、いよいよ、アンの眠っている 墓地に向かうことになった。
 ずっと待っていてくれた運転手にアンの母親が墓地までの 道を説明している。4人が乗り込み、目的地に向かったが、 ほんの僅かな時間で到着した。
 墓地ではアンの妹が待っていてくれた。顔はアンそっくりの 美人である。彼女は近くに住んで、ずっとアンの墓を守って くれているらしい。挨拶を交わした後、案内して頂いた。
 しかし、この時になって大変な忘れ物をしたことに気が 付いた。日本でも墓参をするときは花と線香は必ず持って 行くものである。たぶん、欧米では花輪を献花する風習があるに違いない。
 ホテルにいるときは気が付いていたものを、あわてて車に乗ったもの だからすっかり忘れてしまっていた。 母親や妹にに謝りながら、アンの墓碑までやってきた。
 墓碑は写真の通り、可愛らしい大きさで、英語とともにカタカナで「アン・ロス」と、 書かれていた。しばらく立ちつくし、感慨深げに歩み寄った。感無量である。 やっと母親との約束が果たせたのである。
 手を合わせながら、在りし日のアンを思いやった。
 自然に涙が伝わってきた。「ありがとう、ごめんなさい」の言葉しか出てこなかった。
 長い間、日本人が訪れるのを待っていたことだろう。
 多くの犠牲になった犬達のためにどれだけ辛い思いをして看病に当たったのかを考えると、 私にはお詫びするしかなかった。もっと彼女のために何か出来なかったのか? この墓に来るまで自問自答の毎日だった。今はただ、安らかに眠って貰う事を祈るばかりである。

4歳の息子もはにかみながら一緒に並び、妻も一生懸命、墓碑に向かって頭を垂れてくれた。 永年の夢であった墓参も無事に終わり、去りがたい気持ちを残して、車に戻った。 アンの妹も一緒である。二人を自宅に送って最後の別れを惜しんだ。帰り際には涙を浮かべて、 ちぎれるように手を振ってくれた二人の姿は今も目に焼き付いて離れない。




16: アンの贈り物

 アンが私達日本人にくれた贈り物、それは人類を超えた愛情、友情である。
 明日へも知れぬ病魔と闘っている重症の患者さんに接する優しい医者や看護婦と同じように、 いや、それ以上に実験動物に対して接していた。
 ともすれば、試験管やビーカーのように、割れてしまえば交換すれば良いと言われるような 存在だった当時の実験動物に対して、我が身を賭して看病したのである。
 親子、兄弟でも下手をすると殺してしまう世の中で、相手の痛みを自分のものとして、 全く見ず知らずの国へ来てそれを行ったのである。
 私はアンの死後、実験後に殺される運命のイヌに数滴の水を与えたことがある。
 大量の水は実験中に嘔吐を起こす危険性があるので、ほんのお湿り程度だった。
 そばで見ていた研究者は「何をしているのですか?」と聞いてきた。
 私は「末期の水です」と答えた。その研究者は実験後、そのイヌの死体に向かって 手を合わせてくれた。アンが贈ってくれた大事なものがその研究者に伝わった瞬間である。
 やがて、そのような研究者が増えてきたときがアンの目的だった「動物福祉国」に変貌する 時だろうと思った。そして、もう一度「動物福祉の延長に人の福祉がある」と言うことを確信した。




17: おわりに

 アンが亡くなって三十年以上経過した今、私の勤務する大学では更なる変遷があり、 名実ともに日本一の実験動物施設が稼働している。大きさもさることながら、空調設備、 スタッフの充実、学生、研究者の教育カリキュラムの徹底など、動物福祉の概念に沿った 形で運営されている。現在、私自身はこの学部にいないが、勤務途中に見上げるたびに アンが生きていたらなあと思うのである。
 新しい建物にはアンの形見となるようなものは一切、残っていないが、彼女の精神は 脈々と受け継がれているのである。それはこの大学だけではなく、日本全国の大学も同様で、 実験指針には必ず、「動物福祉」の文字が使われていることから伺える。
 でも、殆どのスタッフは昔、アンのような英国人女性がいたことを知らない。
 また、地下牢のような環境で実験していたことも知る由がない。
 最初から綺麗な現場で働き、それが当たり前だと思って日々の暮らしを送っているが、 医学の裏側にある実験動物の歴史もアンのカタカナの墓碑と同様に、日本人の頭から 忘れ去られてゆく運命なのかも知れない。




18: あとがき

 この物語の骨子となるオリジナルは英国に墓参した後、私家本として、500部作成し 関係者に無料で配った。題名は「アンと息子のために」である。
 出版してさらに十数年が経過した。この本もアンの墓の事も忘れられて久しいが、 ある日、自宅のパソコンでペット動物の福祉活動をされている方のホームページを開いて 見ると、「佐藤さんの書かれた本を探している」と言う記事を見つけた。
 贈呈したいものの、我が家には二冊しか本がなく、これは息子のために大事に残して いるものである。どうせなら、新たに編集して再版し、自費出版でなく本屋さんの店頭に 並べて頂いて、より多くの日本人にアンの墓のことを伝えたいと思い、数社の出版社に 声をかけたが、現在のように不況の折、色よい返事は頂戴出来なかった。
 そこで、何とか伝える方法を考えた結果、自分でホームページを作成して、最初は限られた 人しか見なくとも、少しづつでもその輪を広げていけば良いだろうと、挑戦することにした。
 ホームページどころか、パソコンをさわるのも苦手な自分に、どれだけ小生の気持ちを お伝えすることが出来るか、不安いっぱいであるが、これを読んで頂いた方に一滴の涙でも 流して頂ければ、異国の地に眠っているアンにとっても本望であろう。




19: 啓蒙

 長年の夢であったアンの墓参も無事に済ませて、彼女の意思を引き継ぐため、啓蒙活動の実践を 行って来た。以下の文章はエッセイ集からの一部抜粋である。順不同であるが、本編に挿入した。

(要望書)

自分の立場もわきまえず、いきなり病院長に要望書を提出した経緯がある。 「佐藤は福祉と言いながら、いったいどんな貢献をしてきたのか?」と聞くことがある。 結果的にこの要望書は病院長の心を動かし、当時の金額で500万円もの予算計上をしていただき、 犬の飼育室は改善され、冷暖房装置も取り付けられ、死亡率は激減した。 吹きさらしだった屋上の飼育エリアも他の大学の例を取ったり、動物愛護運動家の批判を 強く訴えて粗末ではあるものの、一応はブロック作りの建物を作ってもらった後だったが 満足の行くものでは無かったため、苦肉の策だった。 いちいち、言い訳はして来なかったが、色々な批判に対して、自分で出来る範囲で このような無茶をして来た時代があったとだけは言っておこう。 以下に当時の要望書の内容を記しておく。

大阪大学医学部附属病院長殿

現在、東館屋上犬飼育室には実験用として常時、70〜80頭の犬が飼育されております。 しかし、その環境は非常に条件の悪いものであり、特に夏季、冬季の室内における温度差は 大きく、飼育室としての適正を欠いております。その為、貴重な実験動物が実験に用いる前に 死亡してしまう例や慢性実験中に死亡するケースも多く見られ、研究活動に多大な支障を来たして おります。現在、冬季の暖房方法として、天井吊り下げ型のガスストーブを用いておりますが、 効率が悪く、消防法上も問題があります。これらの問題点につきましては動物舎より研究連絡協議会に 対して設備機器充実費の中から現在6機あるストーブのうち、故障しているものを除くと4機しか使えず、 早急に増設する必要が生じたため、予算要求が出されました。 研究連絡協議会ではこれを受けて検討した結果、夜間等において無人の状態でストーブを使用する ことは事故に繋がるとの見解で、現在使用しているストーブについても使用禁止の処置を取るとともに 動物舎に対しても要求の再検討を促す指示が成されました。 以上のことから、動物舎では庶務係を通じで施設係と相談した結果、ガスストーブに代わるものと して暖房機を設置するために工事費を試算したが見積もり予算が200万円という答えが得られため、 再度、研究連絡協議会に打診しましたが、むしろ、これらは犬を扱う利用者(研究者)に委ねるべき とのことで、急遽、生理研利用者世話人会が開催されました。  利用者会では当面の方法として、動物委員長宛てに要望書を提出することとして、その作業を行う ために研究連絡協議会に具申し、問題提起を行ってもらうよう、要望いたしました。  このような経緯において具体的な予算の無いことから、冬季の暖房については何ら改善がなされない どころか、従来のガスストーブも使用できない状況に至ってます。  12月に入り、夜間の気温も低下し、このままでは動物の飼育は困難となり、種々の問題が生じて 来るのは必須です。動物倫理上、社会的にも注目されている本学の現況を鑑みて、早急に対策を講じ なければなりません。以上のような状況におきまして、誠に僭越ですがここに要望書を提出させて いただくものであります。諸般の事情を考慮して、ご配慮くださいますよう、お願い申し上げます。  飼育担当の管理者でもないのに、いらぬおせっかいかも知れませんが元、先生の所で実験助手を していた佐藤の個人的願いでもあると思って、どうかご無理を聞いてください。




              (患者さんからのプレゼント)

アンが亡くなって数年後のある日。職場の管理室前に大きな包みが置かれてあった。 中を開くと、毛布、ペットフード、缶詰、現金三千円が封筒に入っており、手紙も 同封されていた。手紙の文は「ワンちゃん、いつもありがとう!私たち病人の為に 犠牲になってくれて感謝してます。僅かだけどこれで美味しいものを買ってもらって 食べてね?」とだけ書いてあり、名前も住所も無記名であった。 たぶん、入院患者さんか外来患者さんからのプレゼントだと思ったが、実験動物の 為にこのような差し入れは一般の人から初めてだったので、送り主を探すために 病院中を駆けずり回ったが、結局はわからなかった。 最終手段として、新聞に投稿して感謝の意を伝えたところ、ある方からの情報で ご本人が現れた。その方は癌の末期患者さんで、いつも犬の泣き声がする実験室に 来ては何とか感謝の念を伝えたいと思っていたと言うことであった。  自分の命があと僅かであっても、私は素敵な家族に見守られて死んでいくことが 出来る。でも、実験犬達は病気でもないのに我々患者の為に健康体にメスを 入れられ犠牲になってくれている。その気持ちを伝えたくて、黙って置いて いって失礼しましたが、許して下さいと言うことであった。 私はとんでもありません、貴方の優しい意思を無駄にしないよう、有難く 使わせて頂きますと答えた。その方は三ヵ月後に亡くなられたが、その尊い プレゼントは術後で苦しんでいる犬達にとって最高のプレゼントになったのは言うまでもない。




(奇人、変人)

 自宅からスノコや毛布を持って来て、術後犬に使用していた時の話である。 周囲の冷たい視線はまるで、奇人か変人扱いのような目で見られた。  今ではそのような処置を技術者がしてもおかしな目では見られないが、 昔は冷暖房も無い実験室で研究していた人達にとっては奇異な行動であったのだろう。  どうせ、短期の実験だし、いらぬおせっかいをして欲しくないと言うのが現状であった。  床はタイル張りだし、術後の麻酔から覚めやらぬ犬は体温低下が著しく、これだけで、 回復せずに死亡することが稀でなかった。直腸温度を計測したことがあったが、 麻酔処置だけでぐんぐんと体温が下がり、開腹したり、開胸するような手術を伴えば、 元々体温の高い犬でも30度近くまで落ちてしまうのである。  後にあるメーカーと共同開発で体温低下抑制のマットを作ったことがあったが、 残念ながら、実験現場でそのようなものを使用する施設は少なく、殆ど売れなかった 経験をしている。アンの影響を受けたある技術者も小生と同じような目に会い、 精神的ダメージを受けた方もおられた。  小生にとってはアンと同じく、師匠のような存在であったが、直接、その方の 薫陶を受けに行った時も「私も最初は実験動物福祉なんか不必要だと思っていた時代が あったよ、でも、アンに会ってから自分の考えが間違っていたことに気が付いた。  でも、内部の人間がそれを実践することはどんなに辛い思いをしなければならない ことか、いずれ君にもわかる」と、日頃からおっしゃっていた。  ボーナスを全部使って施設内の犬舎を修理したり、術後犬の為に特別なエサを 買って与えていたのも知ってるし、日本の大学関係者では唯一、アンの良き理解者で もあった。晩年は奥様とも離婚し、家族はバラバラになり、最終的に自らの命を 絶ってしまったが、夏休みに師匠の自宅に行って奇人、変人同志が酒を酌み交わせて 一晩中、語り明かしたのが今も忘れられない思い出として残っている。




(長さんのこと)

 ある動物愛護団体で長年、理事を務めて来られ、日本の動物福祉に貢献された 長さんが他界された。小生が所属する日本実験動物技術者協会の広報にも 「動物保護制定史」を寄稿下さったり、総理府の動物保護審議会委員を歴任するなど、 その影響力は大であった。アンを大阪大学の動物福祉啓蒙活動によこした中心人物でもあった。  東大に最新の動物実験施設が完成した時も、長さんの要請で見学に行ったことが あったが、確か当時の理事長は中曽根康弘氏だったので、その影響力もあって フリーパスで施設内を見させて頂いた記憶がある。  「いつか佐藤さんの大学もこのような立派な施設が出来ると良いね」 と長さんが言ってくれたが、国立大学としては最後の動物実験施設が完成したのは この後、ずっと後からであった。今だから言えるが中曽根氏の秘書を努めていた Kさんと言う方に小生から直にお手紙を差し上げて大阪大学の現状を訴えたこともある。  一技術者としてとんでもない暴挙に出たものだが、当時はそれほど、大学の現状は お粗末だった。ある日、英国の福祉協会会長のゲインさん一行が大阪大学の視察に 来られた時があった。動物委員長から私の部屋に電話があり、病院長の部屋に行くと、 長さんと相馬さんと言う理事も来られており、久し振りの再会に握手を交わしたが、 その時にアンも同席してくれた。会話は全部英語なのでさっぱり判らなかったが、 後で長さんが説明をしてくれ、如何にこの大学の実情が悪いか、また、福祉協会と しても何らかの形で応援すると病院長と動物委員長に話をしたと教えてくれた。  話し合いの後、私の案内で実験室や動物飼育室を見学して貰ったが、各大学を 視察慣れしている一行は改善すべき点や場所を指摘してくれ、最後に「佐藤さん、 大変でしょうけど頑張って下さい」と励まして頂いた。  長さんからは「動物の管理に関する法律」の草稿を送って頂いたし、それに 対するコメントも求められた。技術者としての考えから、その法律に対して、 疑問を感じる部分に赤線を引き、送り返したが、現在、施行されている法律の 一部にはその改善案が長さんの手によって成されている。  また、昭和55年には福祉協会の推薦で実験動物界から初めて私が動物愛護功労賞 を受賞したが、すべて、長さんが影で動いてくれた結果である。  あと少しで私も定年を迎えるが、これまで色々な思いで勤務し、様々な人と出会った。 残念なことに、アンの晩年は福祉協会と決してうまくいってなかったことも 聞き及んでいるが、私にとって亡くなられた長さんは敬愛するべき人で あることに変わりはない。




(擬人化)
 さる実験動物学会のエライさんに「佐藤さんは動物に対して擬人化している」と良く言われた。 学会で実験動物の苦痛と言うテーマで議論された時に、壇上に立つパネラーの一部に苦痛を 否定する研究者がいた。それも、麻酔科の医者を含む、専門家ばかりだったので、ショックだった。  苦痛を感じているかの判断は本人以外、科学的に証明出来ないはずである。交通事故で 追突され、臨床的にも問題がないと思っても、本人が「首が痛い」と訴えると「そんなはずはない」 と医者でも言えないのである。人間の場合は口で訴えることが出来るが、動物は残念ながら、 そう言った手段は持たない。それだけに、相手の立場を尊重してやらなければならないのだが、 どう言う訳か、実験動物への配慮は人間のご都合主義で曲解されているように思う。  例えば内臓が露出しているようなケースでも「これは一見、苦痛を感じているように見えるが、 内臓には痛覚神経がないので、この動物はまったく苦痛など感じていない」と、平気で言う 発表者もいた。確かに臓器と言う部分的な解釈であればそうかも知れないが、それに至った ケースや術後の痛みなどにはまったく触れないところが、動物実験を全体の流れとして見て いない専門家の意見であろう。また、実験後の安楽死の方法についても小動物の場合はギロチンや 頚椎圧迫で死に至らしめる方法が成書に堂々と書かれているし、ウサギまでは打撲でもかまわない とまで記載されている。私は例え、小動物と言えど、麻酔による安楽死を心がけているが、 「時間を掛けずに瞬時に死に至らしめるほうが、動物愛護の観点からふさわしい」と反論された 事がある。それに対して、極論であるが「そしたらマウスなどは一気に踏み潰すと言う方法も 構わないのですね?」と問うたら、「それはまずいでしょう」と答えが返って来た。  打撲やギロチンとどれほどの差があるのか判らないが、とにかく、まったくもって身勝手な 論法だと思う。英国の法律などを見れば、「第三者がそれを見て残酷だと思える行為はしては ならない」と明記されている。それは見る人の精神的苦痛も考慮しての素晴らしい法律だと思っている。  また、そのことから動物実験情報が如何に一般に開放されて来たかの歴史的な配慮が伺える。  私は常々、動物実験は「擬人化」することから始まると思っている。  例え、マウスなどの小動物であってもこういうことをしたら痛いだろうな?とか、人間ならば 我慢できないだろうと思いながら実験して欲しいのである。そうすることによって初めて 患者さんへの優しいアプローチが可能であり、インフォームドコンセントが成立するのである。 「どうせ動物だから、どうせ、最後には殺すのだから」と言って、苦痛の排除も考慮せずに 実験出来る医者にはお世話になりたくないと思うのは私だけではあるまい。




(日本は狭い国か?)

 多くの実験動物施設では犬の飼育ケージはステンレス製のケージで作られており、 多数を飼育する為に二階建ての構造になっている。二階建てにしている理由は 「日本は狭い国だから、このような構造でないと、多くの犬は収容出来ない、そして、 予算上からも一匹の犬にそれほど経費はかけられない」と言う答えが返ってくる。  本当に日本は狭い国だろうか?ならば、実験動物福祉先進国の英国やスイスは どうなんだろう?国土の大きさも日本と同じか、その半分もない国だってある。  そういう国でも、いわゆるペン型ケージと言って一階建ての独立ケージに収容されて いるのが現実だ。広さも中に飼育関係者が入って立ったまま清掃作業が出来るように なっている構造だ。犬を二階建てのケージに移送すると、慣れるまで怖がって ブルブル震えている。飼育施設内で生まれ育った犬は別にして、多くは違った環境 から連れて来られて、いきなりこのような環境に晒されたら、生理学的にも問題が起ころう。  まして、飼育関係者が移動式の架台に乗って清掃作業をするにも大変、危険だし、 実験の為に上げ降ろしする時も危険を伴う。犬は元々、広い場所で飼い慣らすのが 理想であるが、せめて飼育環境の一元化を計る際は動物本来の特性を 考慮したものを模索するのが実験動物関係者の責務ではないかと思っている。




(教える人教られる人)

 昔、実験動物技術師1級資格を取るべく、東北のある町で講習を受けた。  参加者は現役の獣医師を含め、50人くらいだったと思う。  毎日、早朝より講義と実習に明け暮れ、一週間はあっという間に過ぎた。  講師は大学や製薬企業の実験動物関係で名の通った方々であったが、 受講者の中には専門的にそういった講師よりもはるかに実力を持った者もいた。  ただ、立場的に教える側と教えられる側になっただけで、欧米の実験動物技術者 資格試験の講師選抜とは大きな差が見られた。  欧米では講師になる為には、幾多の難しい試験を通じて、実験動物福祉に 理解ある人が選抜され、初めて講師となれるのである。  残念なことに、講習が終わって最後の反省会の席上で意見を求められたので、 正直に実験動物福祉について先生方の中で真剣に勉強されているとは思えないと 述べた。また、ビデオ講義でも、ただ単に最後のテロップで出来るだけ苦痛を 与えないようにしましょう。と流れているだけで、講義中も一切、実験動物福祉 について、誰も講義はしなかった。当時の責任者であった先生からは 「佐藤君がいらんことするから、福祉についても気を使わなけれならないよう になった」と答えられた時は本当にショックだった。  こんな人達が講師なら、資格なんかいらないとも思った。  幸い?試験には落ちたが、時代の先取りをする技術者を育てる講習で、 教える立場の方が国際的な視野に立って、もう少し、勉強して、望んで欲しいと思った。




(テレビ出演の功罪)

 一度だけNHKのテレビ番組に出演したことがある。  実験動物倫理に関する番組で、現実に行われている動物実験の現場で 働いている研究者や動物実験反対論者の方々から様々な意見を聞き、 総合的な判断を国民に問うと言うような内容だった。  私はたまたま、技術者として、白羽の矢が立って、直接、テレビ局に 呼ばれ、お話をさせて頂いた。  NHK側の意向で、当初は直接、大阪大学の私の部屋でカメラを回す 予定だったので、出勤風景から大学の玄関に向かう私を追って多くの スタッフが待ち構えていたが、そのような光景は実験動物福祉とは 何の関係もないので、全部、お断りして、最終的に局でカメラを 回して頂いた。記者と事前の打ち合わせの後に色々な質問に答えたが 結果的に私が言いたかったことは縮小割愛され、如何にも動物実験の 現場で悲惨なことが展開されていることだけがピックアップされた内容で あった。「反対か賛成か」の二元的な意見を対立させた形で構成された この番組は大きな反響を呼び、私は多くの方からご意見を頂戴した。  感謝や非難、「良く言ってくれた」「立場をわきまえていない」などの 意見が交錯する中、私は貝になった。  アンに薫陶を受けた私にしてみればそのような二元的な対立よりも、 現場で働いている技術者として、正直な気持ちを伝えたかったのだが、 その思惑は見事にはずれた。  過去や未来のことよりも、現在進行中の論議で何が問題なのか? 縦型社会の中で一技術者がこのような問題に対して意見を述べることは どれだけの勇気が必要なのか?と言うことは恐らく誰も理解出来ないだろう。  結果論よりも問題点を把握して、自分の力量の範疇で小さな事から 改善して行くことは簡単そうで、なかなか出来ないものである。  つい、現状の大きな波に流され、自分と家族を守ろうと姑息的なり、 天秤の真中で右往左往している人も多いのではないだろうか? 実験動物の関係者の中でもそういった人は多いだろう。  個人的にはこんなことをしても良いのだろうかと疑問を感じても 上位の人には意見を言えなくて、仕方なく共同歩調を取ってしまう。  それが社会の協調性だと勘違いしている方もいらっしゃる。  研究成果は社会に還元されるべきだし、途中経過も報告する義務が あるのは当たり前だし、まして、国民の税金で賄われている研究ならば なおさらである。放映された番組を見ていて、本音が見えなかったのは とても残念であった。テレビ出演は私にとって多くの教訓を与えてくれたし、 絶望も与えてくれた。




(動物慰霊碑)

 動物実験を行う大学や製薬企業などでは年に一回、動物慰霊祭を行っている所が多い。  私の勤務する歯学部でも秋になると関係者を集めて、その行事を行っている。  各教室から少しづつお金を集め、公的な行事ではなく、あくまでも自主的な開催である。  何故、公式行事とならないのか?と言うと、国立大学では宗教行事に関することは一切、 公的にしてはならないとされているからだ。信教の自由は何人にも守られており、それを 例えばキリスト教や仏教の形でも公式に行うとすれば、他宗教の人は嫌が上でも参加を 強制されることになる。だから、歯学部では一切の宗教色を拝し、献花のみで行われている。  他大学では神式や仏式で行っている所もあると聞くが、参加者の自由意志を 尊重して、別に手を合わせなくても良いし、榊や線香を上げなくても良いシステムだ。  私が医学部にいた頃は、年末に近くの尼寺で行っていたのを覚えているが、多くの 関係者が抹香臭い部屋で、数時間も正座し、神妙に頭を垂れていた。  最後に全員がお香を炊いて終了し、その後は各講座で、お決まりの忘年会に突入するのが パターンだった。歯学部に異動した平成元年には慰霊碑も無く、焼却施設横の広場に 申し訳程度の何処で拾って来たか判らない石ころがひとつだけ転がっている状態だった。  関係者に聞くと、何も無いのもおかしいので、一応、慰霊碑の代わりに置いたと言う事で あったが、別に慰霊祭を開催する訳でもなく、草ぼうぼうの片隅にちょこんと置かれている 石が哀れであった。動物委員長も代替わりし、ある日、動物委員長に呼ばれた私は 「動物慰霊碑も無い学部はうちだけですよ」と言ったら、早速、運動をしてくれて、 各講座に協力を求め、事務側も協力してくれたおかげで、黒御影石の立派な慰霊碑が建った。  他大学にあるものに比べて、ほんの小さなものであったが、これで、毎年、慰霊祭が 開催出来ると喜んだ。私は無宗教なので、本音の部分では年一回の慰霊祭に顔を出すより、 本来は暇を見て手を合わせに来て欲しいと思ったが、そう言う訳にはいかず、取りあえず、 その動物委員長のおかげで現在に至っていることを感謝している。  日頃は雨ざらしの中でポツンと建っている慰霊碑であるが、この時ばかりは周囲の 雑草を刈り取り、丁寧に清掃され、関係者にかしずかれる日であり、実験動物の犠牲の もとに自分達の研究成果があると認識される日でもある。  医学部に在籍していた時は新設動物実験施設の初代施設長の教授と色々相談した 挙句、やはり抹香臭いのはやめておこうと言うことになり、施設正面玄関の壁面に 動物福祉に関係したモニュメントを配してくれた。その絵を見て入室する研究者や 学生はどんな思いで見ているのか判らないが、昔々にアンと言う女性が築き上げた 動物福祉の基本的理念がその壁にこもっているとは誰も気がつかないであろう。



(死亡率)

 ある会議でのひとコマ。「たった5%くらいの死亡率で大事な研究をストップ出来るか!」 「先生、そうしたら私がここに100個の団子を用意します。その中に5個だけ、食べたらすぐに 死んでしまう毒が入ってます。先生はそれを食べることが出来ますか?」「君は技術者のくせに 生意気なことを言うな!」この一言で会議は紛糾し、その技術者は以後、実験動物の仕事から一切、 手を引くように言われました。それは10年以上も続きました。5%の死亡率と言うのはラットと言う 実験用のネズミから人間に感染する人畜共通感染症のことです。過去に全国の実験施設で流行し、 残念ながら一人の技術者が死亡しました。現在のSARSのように、新聞やテレビで報道され、大きな問題と して取り上げられました。この病気は元々、「梅田熱」と言って大阪の梅田で最初の患者さんが見付かり、 その後、感染者が増えるに従って、死亡する方も出ました。感染源の中間宿主はドブネズミと見られています。 また、朝鮮戦争動乱時に韓国で多くの米兵が感染し、この時も死亡者が出ました。その後、間欠的ではありますが、 世界中でこの病気の報告例が続きました。後の研究でこの韓国の草原地帯に多く生息するアポデムスと言う野鼠に、 この感染源のウィルスが存在していることがわかりました。どう言うルートで日本に上陸し、一般はもとより、 実験動物施設に感染が広がって行ったのか、未だに不明ですが、媒体はドブネズミなので、どこかで接触する 機会があったのでしょう。そう言う病気の感染例が再び、ある大学の動物実験施設からあったのを受けて 動物委員会を開催して貰ったのですが、冒頭のような結果になってしまったのです。 この技術者は過去にも他学部でこの病気を体験しており、感染した研究者の血清を持って同じ大学に ある微生物研究所に検査依頼もしているし、感染ラットの処分もしています。また、腎不全までもう一歩と 言うところまで行った研究者から、万一の場合に備えて、遺書まで作ったと聞いてました。 だからこそ、その怖さも充分、認識していたので、一刻も早く、施設にいるラットの検疫体制を敷いて、 一人の患者も出さないようにと意見を具申したのですが、その行動と意見は無視された形になりました。 それだけでなく、「実験動物関係者はそれだけのリスクがあって当然」とまで言われたのです。 死亡率5%と言う数字は一般にとって、僅かなように思われますが、医学的には大変な数字で、ましてや、 それを認識していない医者がいると言うことに、驚きを通り越して、あきれ返りました。 自分も感染者になるかも知れない危険性、あるいは部下も犠牲になるかも知れない恐ろしさ、 そう言うことに無知な医者が「命」の研究をしていることに不思議を感じてならなかったと技術者は回顧しています。 現在は殆どの施設でSPFラットと言って、微生物学的に管理された動物を使っていますので、 そう言う悲しい出来事は起こらないと思いますが、病気を持っていても安かったら何でも良いと言う 無知な研究者がいれば、危険性はゼロになったとは言えません。実験動物福祉を考える上でも、 このことは重要な警告を動物から発して貰った一例です。



「人獣共通感染症」

人畜共通感染症とも言う、この疾患はこれまでに様々な話題を提供して来た。 感染しても大したことも無い病気から重篤な結果に陥る病気まで、色々な パターンがあることも知られている。 病原性微生物による伝染病については パスツールやコッホが世界で最初に手をつけた分野であるが、 共通伝染病に 関しては比較的新しい分野と言える。WHOの定義では「人と動物の共通 伝染病とは脊椎動物と の間に自然に移行しうるすべての病気、あるいは 感染を指す」と言うことになっている。 感染症にはウィルスをはじめ、細菌、 寄生虫などの原因微生物があり、その割合もウィルスが27種類、 細菌が 20種類、寄生虫が22種類とこの三者で大半を占めている。また、動物からの感染例ではネズミなど のげっ歯類が33種、犬で27種、 猫で21種、牛が26種、豚が25種、鳥で24種、山羊23種、馬13種、 狐、こうもりなどで11種となっている。 感染経路としては皮膚、口腔粘膜、消化器、呼吸器、結膜、 秘尿器生殖器と あらゆる部位が病巣になる危険性を持っている。 ウィルス疾患で有名なものは脳炎、オウム病、狂犬病、天然痘、細菌では ペスト、炭疽、ブルセラ、サルモネラ、 結核、赤痢、寄生虫では吸虫類、 条虫類、線虫類などがあるが、防疫体制が強い先進国ではこのような疾患発生 は抑えられている。しかし、後述するように実験動物の世界ではつい最近まで技術者が犠牲に なった例もあり、 予断は許されないことも確かである。また、人の持つ結核菌や赤痢菌、感冒ウィルスが動物に感染することも多く、 特に霊長類では重篤なケースが見られる。これら伝性病にはコレラ、脳炎、チフス、ペストなどの法定伝染病や 百日咳、インフルエンザ、破傷風、狂犬病、マラリア、フィラリアなどの届け出伝染 病のほか寄生虫予防法に 指定されている上述の寄生虫や家畜伝染病の指定 されている炭疽、狂犬病、ブルセラ病、結核、トリコモナス などが含まれている。と、ここまではお勉強の世界であり、このような説明はネットでいくらでも 調べられる のでこれくらいにしておこう。それでは、実際に実験動物の世界で過去に著者が経験した壮絶な感染症との 闘いについて人獣共通感染症とはどんな悲惨な面をもっているか証言したいと思う。 (流行性出血熱勃発)それは突然やって来た。親しい研究者が脂汗を掻いて管理室に倒れこんで来たのである。 熱を測ってみたところ、40度近い高熱だった。出勤前から体調が悪かったそうだ。取り合えず、ソファーに 寝かせつけてその研究者の上司に電話をした。実はその数ヶ月前から全国規模でおかしな病気が 実験施設で 流行りつつあるという噂を聞いていたので、夏期休暇を取って情報集めに東北大学に行って帰って来たところだった。 貰って来た資料には「韓国型出血熱」となっており、実験用のラットからの感染で 高熱、腎不全、点状出血を 起こし、ひどい場合は死に至ると書かれてあったのを思い出した。管理室前の掲示板にこのコピーを貼り付け、 研究者に注意を喚起して いたのだが、ついに最初の患者が発生した。研究者の血液を採取して微生物研究所に 持ち込んだ。結果は最悪でピカピカの陽性 だった。それも抗体価が何百と言うオーダーで下手をすると命に 関わる重篤な結果 だった。直ちに入院させ、絶対安静とともに解熱時におけるショック症状の監視、 二次感染防御の対処療法などの処置を嵩じた。腎不全に対してもすぐに対応出来るように人工腎臓の準備も してあった。当の研究者は最悪の場合を考えて遺書も書いていたが、傍で見ていてとても辛かった。 そうこうしているうちに、大学内の他学部でも患者が発生し始めて、擬似患者を入れると私の管理区域 だけでも十数名が入院加療の処置を撮らなければならなくなった。他大学も同様で、次々と患者発生の知らせが 新聞、テレビで報じられた。そのうちの一人の実験動物技術者が犠牲になった。 新聞にはスキーに行って疲れている身体のまま仕事に入ったので過労で弱っているところにウィルスが進入した とか色々書かれてあったが、私は今でも信用していない。ただ、残された小さなご家族が可哀想でならなかった。 大学では動物委員長か病院長が窓口になり、メディアの対応をすることになり、管理者である私ですらカヤの 外に置かれた。何とか当該の研究者も一命は取り留めることが出来、感染者も落ち着いてきたところ、 動物委員会でラットの処分をする話 が持ち上がった。数千匹いるラットの処分は大変である。 当時は飼育部門と実験部門の管理が違っていたので、本来は飼育担当者が処分をするのがリーズナブルで あるのだが、何故かこの疾患に関することは佐藤が一番 詳しいと言うことになり、満場一致で私にその任が 与えられた。一人の実験助手が手伝ってくれたが、毎日、数百づつ大型のポリバケツに入れて、ホルマリン で処分するのである。感染経路が不明だし、ラットそのものには感染したからと言って何の症状も出ない のだから選択の余地は無かった。それに抗体陽性反応も殆どの個体から確認されたので、処分せざるを 得なかった。一週間ほどかけて、全頭処分を終えたが、その疲れから今度は私が患者になってしまった。 この病気が発生してから家に帰ったのが記憶に無いくらいだった。抗体価は陽性陰性のぎりぎりの所だった から一応、擬陽性という診断が下り、即刻入院処置が取られた。熱は41度もあった。口腔内粘膜からの 点状出血も見られたが、本人は至って冷静のつもりだった。結局は三週間も入院させられ、その間は 自宅にも「新聞で騒がれている病気だから 見舞いには来るな!」と電話をしていた。時々様子を見に 来る看護婦(当時の呼び名)も主治医もマスクを何重にもかけ、手洗いをしながら入退室していた。 この時は特等患者扱いで、立派な病室に動物委員長も病院長も良く見舞いに来て くれたし、私には 似合わない立派なランの花が部屋に飾られていた。亡くなった技術者のように私も同じ運命をたどって いたら、大学もどういう処置を 取っただろうな?と意地悪な考えも今は笑いながら言えるが、当時は 関係者にとって本当に戦争状態だったのだ。 結局、本感染病の終結宣言が出るまでは数年もかかったが、 おかげで人獣共通感染 症についても勉強をしたし、この病気も元は極めてきな臭い出所であることも わかった。詳しいことは避けるが、朝鮮動乱の時にこの感染が兵隊の間に広がり、 多くの犠牲者が出ている。 38度ラインの草原に多く住むアポデムスという野鼠に 当ウィルスが広範囲に蔓延し、直接、間接的に 野鼠と関わりを持った兵士がバタバタと倒れていった。一説には細菌兵器がばら撒かれたとの話もあるが、 真意はさだかでない。エイズと同じように対処療法しかなく、根絶することは不可能に近いウィルスである。 どういう経緯で日本に上陸したのかわからないが、「梅田熱」として、大阪に大流行した経緯を調べると、 やはり犠牲者も出ていた。遺体からウィルスを発見して同定した最初の開業医は何故か学会から相手にされず、 韓国型出血熱や流行性 出血熱、腎しょう紅熱など、名前を転々と変えながらこの 「不明熱」は、現在も 地下に眠っているらしい。この話は医学部在職時代の思い出であるが、別のエッセイ にも書いてある通り、 現在の学部でも危機一髪と言う経験もした。だが、根本的に違うのはこの病気が「たかが5%の死亡率」と 考えるか「5%もの高確率」と考えるかの大きな差が出た時には正直、ショックであった。 これはとりもなおさず、命と関係ある学部と関係の無い学部の違いによるものなのか、その辺は定かで ないが、こう言う考え方の研究者や管理者がいることによって、世間から益々馬鹿にされないかと 危惧したのも事実である。ゆきちゃんやハッピーのように、一方では実験動物福祉に理解を示し、一方で は感染事故に理解を示すおかしな大学であるが、そんな中で40年近くも働いて来た私が最もおかしな人物かも知れない。


(元実験犬ユキちゃん)

本来なら実験後、処分されるはずの犬が貰われて行った。貰われた先は「日本レスキュー協会」。 阪神淡路大震災でも潰された家に果敢に入って行って、活躍したレスキュードッグを訓練している NPOである。他の活動も老人福祉施設などにセラピードッグとして、訓練された犬を譲渡している。 この協会に講演依頼を受けたのがきっかけで、処分するに忍びない実験犬の行き先を相談した。 元々、この犬は施設で生まれ、簡単な処置をしただけで、2年間をケージ内で暮らしていたものだ。 何度もトレーナーが訪れて、観察した後、この犬の性格ならばセラピードッグとして充分、通用すると 言うことで、実験動物由来としては異例であるが、協会で訓練を施されることが決定した。 何しろ、初めての経験なので当初、私からの依頼に戸惑ったそうだ。一生を狭いケージの中で 過ごす運命にある数多くのうち、一頭ぐらい助けてどうなると思ったがこれがきっかけで、 一般に実験用として飼い慣らされた犬は他には使い物にならないと言う誤った常識を覆すチャンスだと思った。 そして、大学も法人化に向けて改革が進んでいる中、民間との協調路線を他に先駆けて行うのも目的のひとつにあった。 もちろん、この話は新しく来られた直属の教授の許可を得て進めたのであるが、数年前なら考えられない行動で あった。職場環境は如何に理解ある上司の存在が必要かといった一例である。貰われていった犬は 「ユキちゃん」と言う名前をつけてもらって今、一生懸命、トレーナーの元で訓練をしていると言う。 雌犬で、切れ長の瞳を持った美人(美犬)であり、非常に素直な賢い犬である。 すでに待て!お座り!などの基本動作も覚えたらしいが、早く、大勢のお年寄りの愛玩犬になって欲しいし、 残された他の犬の為にも頑張って欲しい。そして、何よりも一日も早く、「使い物にならない」と言う 間違った考え方をユキちゃんの行動によって払拭して欲しい。 このユキちゃんはのちに、兵庫県の老人福祉施設にセラピードッグとして貰われて行き、現在は お年寄りの心の支えとして頑張っていると聞いている。




(元実験犬ハッピーちゃん)

このたび、新潟の心ある方に里親として貰って頂いた元実験犬、ハッピー ちゃんの近況報告を送って頂きました。メールの内容から如何に愛情を 持って可愛がって頂いているか、お分かり頂けると思います。 私の嬉しい気持ちと感謝の意味を込めて、当エッセイコーナーに掲載 させて頂きました。読者の皆様もハッピーちゃんに思いを寄せてご覧下さい。
いろんな出来事があり、私たちの気持ちを癒してくれるのは何だろうと思って いた時、ハッピーの里親探しに出会いました。 私は実験犬に対して無知でしたし、何の迷いもなくこの犬が来てくれたらと 思いました。でも私の所は大阪以外だし、里親候補も大勢いるだろうしこんな 遠くはとても無理だろうと思っていましたが、話しがとんとん進み我が家へ。 ハッピーとの出会いは単なる偶然ではなく、お互い出会えるべくして出会った のだと思います。もともと犬が大好きで、いつかは家で犬をと思っていた主人 ですが、「今、犬を」とは思っていなかったと思います。 私も「今、犬がいれば」と思っていれば、動物ショップでも、知り合いでも 尋ねていくらでも他の犬を飼う事はできたと思いますがそんな事は思い付きも しませんでした。ですから犬を探そうなんて思ってもいなかった中、里親探しを 目にした時、自然に導かれるように何のためらいもなく申し出た気持ちと、 ハッピーが私たちの所へ来ようとした気持ちが一緒になり運命的な出会いが できたのだと思います。私も佐藤さんのホームページには時々遊びに行き、 エッセイ・掲示板・実験動物のことなど読ませていただき、いろんな意味で ハッピーは貴重な犬だったんなと思います。私達家族はこの間ハッピーに どんなに心を癒され家の中が明るくにぎやかになったことか、あんなに犬が 苦手だった私が今ではハッピーはもちろん、まわりに出会う虫やカエルまで いとしく、会うものみんなハッピーに見えてしまいます。 勤めから帰り、待ちわびて迎えてくれるハッピーを一生懸命なでたり筋肉の マッサージをつい、いつまでもやっているとおばあさんから「ハッピーや、 いつまでも甘えているんじゃない」と明治の教育を受けたり、ふつうの家庭で 普通の生活をしているハッピーですが、セラピー犬として活躍・貢献した ゆきちゃんのように広く社会に活躍させてやれなく、いろんな難関をもこえた 貴重なハッピーを、一個人の家に飼われて良かったのかなーという思いも ふっとします・・・。さて、あっという間に実りの秋が来ました、ハッピーと 一生懸命育てた稲も今日か明日かと稲刈りを待っています。 今年は連日報道(こちらでは)されているように冷夏の影響はいくらか出て いますが、待ちに待った我が家のブランド米、新潟コシヒカリ・ハッピー米の 刈り取りは今月後半になると思います。 出来上がったら佐藤さんはじめハッピーを助けて下さった皆様にぜひ食べて いただきたいと思いますので一番に送りします、楽しみに待っていて下さい。 では、長くなりましたが最後にハッピーの最近を少し、8月のはじめ夕方の 散歩の時、主人は自転車で、気がつくとついて来ない(ノーリード)いつも だと白いシッポがピンと立って草のカゲにいても見えるのに、この日は見えず、 呼べど応えず、探しに戻ると川(幅・水深1.5m位)に落ちていて一生懸命 流れに逆らい犬かきをしていたとのこと、すぐに助けた後はあまりのビックリ に泣き笑いがでたそうです。きっと道草をしていて主人が先の方へ行ったので 急いで走り橋を曲がる時近廻りをして落ちたんじゃないかなと言っていました が、犬の本能で犬かきができ大事に至らずほんとによかったです。 実はこの前の日も、ほんの小さな水耕にぴょんと飛ぶはずだったのを失敗して 落ちてしまい、どうしていいかわからずじっとしていたとか、時々しなくても よいドジな冒険をしています。今となっては笑えるエピソードがまだまだいろ いろありますがこのように毎日元気に過ごしています。 またいつか写真も紹介したいと思います。それから新潟来られる機会がありま したらぜひハッピーに会いに来て下さい、お待ちしております。
                             ハッピーママ



                       (亀井一成先生のこと)

 小生の友人と言うか大先輩に当たる人で、神戸王子動物園の元技師の亀井一成先生がいらっしゃる。 先生とは何年か前に日本実験動物技術者協会の全国総会で講演をお願いしたことから、以来、友人の 末席に加えて頂いている。当時、小生は総会の副会長として、特別講演者の交渉にあたっており、 先生の交渉窓口となっている奥様にお電話を差し上げた。テレビやラジオの出演に忙しい先生の 講演依頼であるから、相当な困難が伴うと覚悟していた。案の定、何度も断られた。 理由は学術的な講演に行っても出席者の殆どがロビーや他の場所に行って、 肝心の会場には 役員ばかりが目立って一般の参加者が少ないのが通例だからと言うことであった。  その通り、学会では本会場以外の場所でロビー会談をするのもコミニュケーションの場として 慣行になっているのが 現状だった。ただ、我々が所属する協会は技術者がメインなので、先生が おっしゃっているようなことはまず、ありません。 小生が責任を持って会場外にいらっしゃる 参加者も全員、講演を聞くように指導させて頂きますので、是非、お願いします。と再三の お願いに上がった。それでも、なかなか首を縦に振らなかった先生であったが、総会長と一緒に 小生の私家本「アンと息子のために」を持って動物園に伺い、実験動物技術者といってもこのような 歴史を歩んで参りました。 先生の仕事は展示動物で我々の仕事は実験動物の違いはあるものの、 動物に携わる者として、共通の苦労はされているはずです。是非、先生の40年間の飼育技術者と しての苦労話を我々にして下さいとお願いした。しばらく考えさせて下さいと、その本をしまわれたが、 その翌日に「わかりました、講演を引き受けましょう。 佐藤さん達、技術者の気持ちがこの本を通じて、 充分理解出来ました」と連絡を頂いた。会長と何度も足を運んだ甲斐があって、講演は大成功に終わった。  先生の話を聞いた参加者は全員がハンカチで涙をふきながらロビーに出て来た。 今までも学術講演は何度も行ったが異例とも思えるこの光景は協会の長い歴史始まって以来の快挙だった。 ハンドマイクを持って「皆さん、これから亀井先生の講演が始まりますので、会場にお入り下さい」 と役員達が建物の中を走り回ったあげく、受付の人も含めて全員が会場に入ってくれた。 小生ももちろん、臭い、汚いと蔑すまされながら頑張った亀井先生の40年間の講演内容を聞いて、 涙はぬぐえなかったが、それよりも千名近い全国の技術者が同じ感動を持って聞いてくれたことが 何より嬉しかった。以来、今でも亀井先生とはお付き合いをさせて頂いているが、もし、アンの物語が 再版されるようなことがあれば、 いつでも亀井の名前を使って下さいと、有難いお言葉を頂戴している。 推薦文も書くとおっしゃって頂いたが、残念なことに出版社が見つからず、HPで公開する羽目になってしまった。 でも、見る人が限られるこのようなサイトでも、徐々に広がりを見せていることは 事実である。 先生の素晴らしい著書の足元には及ばないものの、同様の気持ちを持って動物愛護、福祉活動をされて いる方からの反響を期待したい。




(動物福祉と人間の福祉)

 妻の両親は聾唖者である。義父は重度のパーキンソン病になり、寝たきりの生活を送っている。 その義父も16年1月に他界した。5年間の寝たきり生活であった。  小生の両親はとっくに死別しているので、一人息子と合わせて五人が同じ屋根の下で暮らしていた。 健常者の孫が出来た時は本当に嬉しかったのだろう。まだ元気だった二人は争うようにして、可愛がった。 その孫も高校を卒業し、今は専門学校に通っているが、このような環境で育った為か、障害者には優しく 接し、大きな反抗期もなく、順調に成長してくれた。  生まれた時から、障害者がいる生活を当たり前のように過ごし、当たり前のように接することは実際に 経験した家庭でなければわからないであろう。公共の場で大きな身振り手振りで手話をしている姿に 健常 者は奇異な目で見ることがある。「福祉」と言う言葉が叫ばれて、一般の人々にも障害者に対する 啓蒙が 進んできていると言っても、日本ではまだ特殊な人々と見られ、差別意識が存在しているのが 現状ではな いだろうか?妻と結婚してこれまで、様々な嫌な思いをしたことがある。  義父は釣りが好きで、元気だった頃に良く一緒に出掛けた。並んで釣っていると他の釣り人が 話しかけてくるのだが、聞こえない義父は返事が出来ないものだから、当然、その人の方を向かない。  すると、「人が挨拶しているのに何を偉そうにしているのだ!」と捨て台詞を残して行ってしまう。  慌 てて、小生が追いかけて行って「すんません、親父は耳が聞こえないのです」と謝ることしきりであった。  また、ある時は職場の関係者から「障害者は本来なら生まれて来ないほうが良い、野生なら生きてゆける訳がない」 と言う 驚くような言葉も聞いたことがあった。研究者でも医者でもないが、れっきとした大学の先生である。  悲しい言葉である。その方もいずれは年を取って身体が弱り、障害者と何ら変わらない運命にあること も気づかないのであろう。誰だって年は取るし、身体の衰えは年齢とともに増してくるものだ。  階段の一段一段の上り下りに恐怖を覚え、外出さえ出来なくなるし、脳細胞も同様に不活性化し、 記憶力や洞察力も落ちてくるのは運命である。そうなった時に「野生なら生きていけない」と言うような 言葉 を持ち出すような人は真っ先に現代の姥捨て山に放置されるだろう。  この世に生を受けたからには動物も人間も、何らかの形で意義あるものとして生きる権利があるし、 例え、障害者であってもその権利を脅かせることは誰も出来ないはずだ。  人間の福祉のために行っている動物実験ならば、常にそのことを念頭において感謝の気持ちで実施して 欲しいし、実験中の苦痛は自分のものとして、捉えて欲しい。




(数百円の命)

実験に使用される犬はつい最近まで「雑犬」と呼ばれる捨て犬、不用犬として、地方自治体の収容所由来の犬が多かった。 今はビーグル犬がその主流を占めているが、その理由は性格温順、短毛、多産、遺伝的均一性の4条件が実験対象と して研究者に認められたからだ。ただ、雑犬に比べて、入手するには相当な予算計上を覚悟する必要がある。 例えば、雑犬由来であれば、直接、収容所に引き取りに行く場合は一頭数百円の手数料で済むし、中間業者の 手によって検疫済みのものでも一万か二万円で済む。ところが、正式にブリーダーからビーグルを購入すると 10万円から二十万円と言うびっくりするような値段に跳ね上がる。例え、製薬企業で使用されていたリタイヤの ビーグルでも、中間業者経由だと5万円から10万近くもする。何故、同じ犬なのにこれほど差があるのか? 雑犬と呼ばれる犬でも導入した施設で愛情を持って飼育すれば見違えるようになることは知られていない。 確かにこれまで可愛がってくれた人間からいきなり捨てられたり、不用犬として収容所に持って行かれた犬は 多かれ少なかれ人間不信になっており、施設に来た時はビクビクしたり、噛み付こうとする犬もいる。 しかし、このような犬も気長に飼育し。毎日声をかけ、たまには散歩などに連れて行っている間に飼育管理人には 慣つくようになる。研究者自ら行っている場合はその研究者に対しては主人同様の従順さを示す。 性格も温順になり、例え長毛種であろうとも、バリカンを使って注射部位を剃毛しても、嫌がらずにやらせてくれる。 犬は元々、多産であり、ビーグルに頼ることもないし、日本犬は洋犬に比べて難産が少ないし、遺伝的組成も マウスやラットなどの小動物みたいに求められていないので雑犬、結構、ようするに飼育に関わる人やその環境を 支える組織の問題だと思う。施設に導入された犬がこれまでの環境からもっとひどい環境に晒されるか、 はたまた、例え、最後には殺される運命でも、もう一度人間に可愛がられるか、大きな差であろう。 テレビなどのコマーシャルで「パパ、犬欲しい!」と言うのがあり、そのおかげで数十万から数百万円も する犬が顧客とブリーダの間で、猛烈な勢いで取引されていると聞くが、安易な考えで購入された犬が数年後に 実験動物施設に来ていると言う現実は誰も知らない。雑犬の中には過去に一世を風靡した犬種も少なくなく、 命の値段はこういうところでも、「数百円」に落ちているのである。




(見学)

 動物実験室の管理をしていたら時々、外部の団体、個人から見学をさせて欲しいと言う依頼がある。 自分の大学でも施設を作るので参考にしたいという方から動物福祉団体、 将来、医学部に進学したいという高校生、患者さんなどが多い。 殆どが正式に病院長を通しての申込者でなく、直接管理室に やってくるのである。取り合えず、動物委員長や実験室利用運営 委員長に連絡を取って、許可を貰ってから案内させて頂いたが、 一様に顔をそむけながらの見学であった。  実験室内は清掃は怠りなくしているものの、やはり独特の臭気は ぬぐえない。それに手術実験室内では出血を伴う実験が展開されている。  これまで見たこともない世界がいきなり現れたのだから無理もないが、 医学の側面にはこのような世界が実在しているのは覚悟して欲しかった。  中には残酷だと言って泣きながら写真を撮っている方もおられたが、 私は無視をして一通りの見学案内を済ませた。  しかし、それらの写真が一部、動物実験廃止のキャンペーンに使われた こともあった。実験動物関係者にしてみれば、当たり前の光景でも 一般の人にとっては受けるイメージがとても残酷に思えるように説明 してある。内部で実験動物福祉に努力して来た私にとっては晴天の霹靂である。  手術台の上に載せられて開胸されているシーンは誰が見ても残酷に思えるが、 これが患者さんならどうだろう?同じ医者がしている行為でも違ったように 見えるのだろうか?一方では治療行為、一方では実験と言うだけで、 これだけ違った見方をされるとは思わなかった。  実験している医者からはこの実験の必要性を充分、説明しているのを聞いた 上でも納得出来なかったのだろう。  以後、私は正式ルートを通さない見学をすべて断るようになった。  見学を終えた人の中には「ありがとう!お犬ちゃん」と言って退室する方も いたが、そのような方は病気でもない動物を使って実験をしなければならない 我々の苦悩を少しは理解してくれたと思っている。  犠牲になってくれた命を決して無駄にしない結果があればこそ、 現代医学の進歩につながって行くと信じているが、残酷だと言っている 人もその犠牲の上に立って生活をしていると言う事を忘れないで欲しい。




(アンケート結果)

 ある講演後に参加者に主催者が書かせたアンケートのコピーが送られて来た。 真面目に書いてくれた130名の回答用紙で、大半が小生の講演に好感を持ってくれた内容であった。 ただ、5名の方だけが何を勘違いされたのか、「動物実験推進が始めにありき」の講演だったと書かれていた。 そして、そのような立場の人間の講演には感動も覚えなかったとも記されていた。 10人いれば色々な意見があって当然だが、一部とは言え、大変、残念なアンケート結果であった。 小生が何故、「カタカナの墓碑」のホームページを作り、多くの日本人に伝えようとしているのか、 一体、何を期待して来られたのか理解に苦しむ内容だった。 講演では一言も「動物実験の擁護」「動物実験反対」の話はしなかったし、研究者でもない一技術者の 小生が言える立場ではないことを十分、理解していると思っていた。  当時の動物実験の現状をありのままに伝え、アンと出会ってからの変革やその後の個人啓蒙活動に ついてお話をしたつもりである。時間の都合で、この世界の人間関係について、詳しく話さなかったが、 「動物小屋のおっさん」と呼ばれていた関係者は職場でも最下位に属し、白衣を着たり、注射器を持っただけで 「生意気な奴」と言われていた時代の話である。そう言う立場の人間が、内部で上位の者に動物福祉の啓蒙活動を して行くのに、どれだけの悔し涙を流したかは理解出来ないだろう。過去の経緯も理解せず、ただ、 「動物実験関係者」だと言うだけで、すべての人を攻撃対象にしてしまう彼等の対応に、正直、情けないと 思った。こういう人たちにはいくら、力説してもアンの気持ちは伝わらないだろうと思った。 動物実験の福祉論争では外野からの評論家は沢山いる。でも、内部からの変革を希望して、実践している人も いると言う事を理解して欲しかった。最後のスライドで、アンの影響を受けて、動物福祉に奔走した挙句、 様々な軋轢で精神的にダメージを受けた一人の日本人技術者の死を伝えたのも、そう言うことである。 まかり間違えば小生も同じ運命を辿っていたかも知れない。このHPやエッセイ集を見たり、講演を聞いても 「何も得ることが無い」「感動もしなかった」と言う人には動物福祉活動なんてして欲しくないと言うのが正直な気持ちだった。




(アンの形見)

 思いがけないところからアンの形見が現われた。持っていたのは私の長兄で、最近、ベルギーとオランダに行った 際に昔、私が自費出版した「アンと息子の為に」と言う本を旅行の参考に持って行こうとしたところ、 本棚から古い本が出て来たので、よく見ると長兄が大学で働いていた頃にアンからプレゼントされた本だった。 自分には必要が無いので私にと送ってくれた。文庫本よりやや小さな本であったが、赤表紙で、英語の文字と共に 世界各地の犬の写真が掲載されていた。今流行りの犬種も多く掲載されており、秋田犬も並んでいた。 固定化されたブリーディングの歴史や入手先も書いてあり、アンの故郷、英国の犬種も多く、彼女が亡くなって、 お墓の横に横臥していた犬とそっくりな犬種もいた。恐らく、アンはこの本を見ては故郷を懐かしんでいたのだろう。 殆ど殺される運命の実験犬の福祉活動をする間に、飼い主から可愛がられて、一生を家族と共に過ごすそれらの犬の 写真を見ながら、何と世の中は不公平なの?と思ったに違いない。また、純血種と思われる犬でも流行好きな日本人に 飼われたあげく、その流行が終われば簡単に手放す人々に怒りを覚えただろう。 今、空前のペットブームであるが、この流行が何時まで続くか判らない。そして、おもちゃのように捨てられて、 あげくは収容所で処分されるか、生き延びても実験用に回されてしまう運命が待ち構えている。 もし、犬達の叫び声が人間に理解されたなら、「どうして私達を捨てるの?私達は何か悪いことをしたの? でも、死んでも可愛がってくれたことは忘れないわ」と言うことが聞こえてくるだろう。 アンの形見はもうひとつ、私の手元にある。英国に墓参に行った際にアンの母親から託された小さな木彫りのウサギである。 今でもピアノの上に大事に飾ってあるが、この本も横に並べて冥福を祈ろう。




(本音と建前)

 物事には本音と建前があると知ったのはいつ頃のことか?社会構造として普通に機能していただろうが、 子供の時はそんな言葉はもちろん知らない。大人の社会に参加するようになり、正直な対応だけでは決して 物事は進んでいかないのだと知った時はショックだった。これは、大人になるにつれて、純真さが失われていく 過程なのか、賢くなって行くのか、反対にずるさに長けた者として自分自身を容認させて行くべきなのか? 自己矛盾の中で私も随分、悩んで来た。動物実験の是非について、現場に居る技術者として、色々な関係者と 接触して来たが、どこまでが本音で喋っているのか判らない人も多かった。  生物は生活本能として、生きる為にはまず、何かを食べなければならない。食物連鎖と言う言葉があるように、 他の生命を犠牲にしてでも自分の生命を維持しなければならない運命を背負っている。そして、 人間はその食物を得る為には労働と言う義務を果たし、その見返りとして、金銭を得て、それを食物に 還元させて、家族や自分の生命を維持している。これは、どんな職種も同じ事で、動物実験に携わる人々も 例外でない。だから、「私は医学の発展の為に行っているので、見返りなどは希望していない」と言うのは 建前であり、本音の大部分はそこにあると思う。もちろん、「名誉」や「富」の為に働いていると言う人も 居るだろうが、最終的にはそれも、生命維持の為である。それも、他人に比べて余裕のある生命維持を図らんが為の 建前であって、本音は皆、同じであろう。殺すのは可哀想だが、自分の生命維持を図る為にはこの職種を選んだ以上、 情動的部分を抑えても、実行しなければならないし、縦型社会の中では、建前を全面に押し出して、本音は隠さなければ ならない場合もある。そのぶつかり合いが動物実験賛成派と反対派の決して相容れない基本的な事項であるのに、 両者ともそれに気付いていない人が多い。一方は情動的部分、一方は実質的部分をお互いに主張し、批判し、 建設的な意見交換は成されていないのが、誠に残念である。これまで「科学の発展の為とは言え、人間には そんな権利は無い、今後、如何なる動物実験も許さない!」とか「貴方達は牛肉も食べている、そのような由来の 衣服や靴も履いているのではないか?」と言うような不毛の議論が戦わされて来た。 そんな人々もこれまで、うんざりするほど本音と建前の社会で生きてきたはずだ。そこには相手の気持ちを 理解することは無く、お互いが本音でものを言えない者同士のいたわりの精神も存在しない。 すべて、自己中心で、世界がその周りを回っていると勘違いしている。 科学者も関係者も間違いは改めるべきだし、過去の過ちについても謝罪するべきだと思う。 一方、反対派も目線を自分自身に置き換えて他の生命がどれだけ、家族や自分の生命に役立って来たかを 自認して欲しい。私は何故、本音でものを言うと自分も家族も崩壊するかも知れないこの危険な社会で 反対派も賛成派もわけ隔てなく、アンのことや動物福祉の重要性を訴えて来たのかと言うと、どんな人間でも 最終的には相手を理解する許容性があると信じて来たからである。アンの物語には英語版もあるが、 それを見た海外の一部の反対派から「貴方は死ね!そして実験犬に生まれ変われば良い」と書かれた。 もし、そう言う輪廻転生が存在するなら、私はいつでも覚悟している。 それが、実験動物技術者として、多くの死を容認して来た立場への贖罪なら、喜んで生まれ変わりたいと思っている。
これが私の本音である。




(実験動物技術者は不要か?)

 最近、何処の国立大学でも動物実験施設がある所は、人材派遣会社からの出向と言う名目で動物飼育担当者が 多く採用されるようになって来た。それなりのノウハウを持っている会社からの派遣であれば、それほど問題は 無いのだが、まったく実験動物に無知な人が担当になった場合は大変である。 最初からその人に教育を施さなければならないし、せっかく環境にも慣れて、動物とも顔馴染になって、 さあ、これからと言う時期にまた、入札制度でその会社が漏れた場合は毎年同じことを繰り返さなければならない。 特に犬の担当者などがコロコロ変わると、犬自身がストレス症状を起こし、研究に悪影響を及ぼすことなど、 まったく考慮されていない現状である。このような入札権限は事務当局が握っており、現場の我々には どうすることも出来ない。例え、一円でも安いほうに入札させ、経験者であろうと無かろうと、実験動物管理の 重要性をまったく知らない派遣会社でも金額だけで決まってしまうのが現実である。 これは実験動物だけではなく、動物関連の仕事全般に言えることなのだが、江戸時代から続く差別の原点から 来ているのではないかと疑ってしまう。士農工商の段階的制度があったのは歴史で習って知っているだろうが、 本来は農民が最下層の民であっったことは言うまでも無い。そう言った農民の勤労意欲を損ねない為 「お前達にはもっと下の者がいる」と、階級意識をくすぐり、とんでもない下層の制度が作られたのである。 それが牛馬の死体処理や犯罪人の処刑後の始末をする人々だったのである。 これらの歴史は、その後ずっと引き継がれて来て、国民の意識の中には「動物関係の下働きの人」に 対する差別意識が残ってしまったのである。 大学では学長自ら「人の差別はやめよう」と公的に宣伝教育しているにも関わらず、現実には 何も変わっていないのである。私自身を例にとって言うと、当時は私の仕事は最下層と見られ、守衛や 事務職員にも「近寄るな!臭い」と良く言われたこともある。また、実験犬のエサを 近くの市場に貰いに行く際は、大八車に大鍋を積んで行くのが当時の光景であったが、その飼育員は一部の 職員に指を指されて、笑われていたのも憶えている。心に傷を負った者同士がいたわり合うことも無く、自分のほうがましだと 思いながら、相手を馬鹿にすることも多かったが、その矛先が言い返すことも出来ない実験動物に行くこともあった。 差別が生んだ知られざる悲しい歴史のひとこまである。 公務員の総定員法と言うものが出来て以来、やはり、一番弱い立場の者から減らして行く傾向で、 現在では行二の職員は殆ど居なくなり、定年で辞めたら、一切補充はなしで、人材派遣業からの社員がそれに代わって来ている。 実験動物の現場もこの波をもろに被り、各大学の施設では正式職員よりも派遣社員のほうが圧倒的に多い所もある。 こう言う環境で、関係者が「実験動物福祉に立脚した飼育環境を作りましょう」と言っても そんな昔ながらの考え方のもとで、未だに動物担当者は安くて交換容易な者で良いと思われているとすれば、 何の為に動管法を改正してまで、動物福祉思想の啓蒙を政府が進めて来たのかわからない。別に人材派遣業社員が 悪いわけではないが、せめて、公的な資格ではないものの、最低限、(実験動物技術師)の資格を持って いる者を雇うとか、会社での教育を充分に終えた者を派遣するとかの配慮が欲しい。実験動物と言えど、 命を預かる仕事として、誇りを持ち、倫理的な配慮が出来る体制が出来ない限り、江戸時代から続く 「差別意識」がいまだに残っていると思われても仕方が無いだろう。掛け声だけで「大学での差別をなくしましょう」と 全国の学長や総長が叫んでも「動物に関わる仕事に高給は払えない、専門家はいらない」と思っている人がいる 限り、実験福祉の未来は明るいとは言えない。




(矛盾)

 小さい頃、矛盾と言う意味を教えてもらってから、まさか、この世の中にこんなに多くの矛盾が存在して いるとは思わなかった。「この矛はどんな物でも貫くことが出来る、この盾はどんな物でも貫くことは出来ない。 さすれば、両者を戦わせたら永遠に勝負にならない」との比喩であるが、周囲を見渡せばそんな理不尽なことが ゴロゴロしているのである。身近なところでは「電車内では携帯の電源をお切り下さい」とアナウンスしているにも 関わらず、乗客の多くが平気でメール交換しているし、シルバーシートでは若者が堂々と座っている。 電波障害によるペースメーカーの誤作動が起きて、心臓障害者の命に関わる問題なのにまったく無視されている現状だ。 シルバーシートは車両の奥まった位置にあるのが相場で、他の乗客から見えにくい場所なので、若者達の格好の エリアともなっている。また、「人間の命は地球よりも重い」と教育されて来たにも関わらず、戦争によって その尊い命が簡単に奪われてしまっている事実。誰かが交通事故で亡くならない限り信号や横断歩道が設置されない現実。 老人一人が亡くなると図書館ひとつを失ったことと同じと言いながら、お年寄りが安心して暮らしにくい環境。 ひとつひとつ上げれば、枚挙に暇がないほどであるが、実験動物の世界にもどうしようもない、矛盾がある。 まずは総論的であるが、人の命の為に、何の罪もない動物を犠牲にしている現実がある。それはペット由来であろうと、 生まれながらにして、ケージ内で育った動物であろうと、同じである。命と言う原点で考えれば肉食人種であろうと、 ベジタリアンであろうと、自分の生命を保つ為には他の命を奪っていることに変わりはない。 だからこそ、感謝の気持ちを忘れてはならないのである。日本人の主食である米は「お米」とわざわざ丁寧語で 言うのはその感謝の現われとして、使われて来たからだ。一本の苗からお百姓さんが苦労して育てたお米を 一粒残らず食べることは我々の年代層には当たり前のことだった。もし、少しでも茶碗に米粒が残っていると、 亡父にこっぴどく叱られたものだ。「元々、不必要とされて捕獲された野良犬、野良猫なのだから、科学の 為に役に立てたほうが良い」と言うのは意外と一般に受け入れられそうな解釈だが、これもまったく、理由に ならない。彼らは自分から進んで捨てられた訳でもないし、実験の為に生まれて来たのではないからだ。 では、どうすればそう言った動物を使わないで研究が出来るだろうか?と考えても明確な答えは出て来ない。 そうすると、次の段階は使用動物の削減であるが、まずは不必要な実験系を減らすことが先決である。 しかし必要、不必要の決定は大変、難しい。研究テーマを上司から与えられて、その中に動物実験が組み込まれて いたら、拒否は出来ないし、例え、追試であっても本研究を始める前には確認しておく必要がある。 国内、国外の発表論文に書いてある方法を模索して、本当にその研究成果が正しいかを確認する為には 動物実験しか方法がない場合がある。悲しいかな、日本の研究者は国際的に認めてもらおうとすれば、 海外の有名な学術雑誌に投稿する際、厳格なレフェリーに審査を受けてパスしなければならない。 それが例え、画期的な研究であっても、英語論文のやり取りのあげく、ほんの僅かな差で海外の研究者に 遅れを取ってしまうこともある。海外の研究者と同様の研究を行っている場合は特に時間が決め手で、 一刻も早く、雑誌に投稿しなければならない。ある研究者の話では日本人がノーベル医学賞を取れないのは、 レフェリーが親しい研究者にその内容を事前に漏らしている可能性があると聞いた。 その真意は明らかでないが、その為、研究内容がばれないよう、細心の注意を払って、研究しなければならず、 つい、姑息的な手段に頼ってしまう結果、動物実験が暗いイメージとしてとらわれて来た歴史は否めない。 各論においては、これら実験動物を管理する側の矛盾である。各種の動物に応じた環境設定をしたいと思っても、 まず予算的な障害にぶつかる。犬を例に取れば幅70センチ、奥行き120センチ、高さ100センチのケージに収容しても、 これが本当に犬にとって最低限のスペースなのかわからない。まして、収容頭数を多くする為にこのような ケージを二階建てにして、連棟式になっているケースが多い。また、床は糞が落下しやすいようにかなりの 隙間が設けられている。学会などでもケージスペースについて、色々議論されているが、大半が米国の NIHの 基準さえ満たしておれば問題は無いとされている。実際にそのような今までに比べて広いスペースのケージを 使用している所も多くなったが、果たしてそれで、満足な環境設定と言えるかどうかである。 一日中、日の目も見ず、排泄も出来るだけ扉に近い場所にしていることを思えば、やはり、犬と言うのは 開放環境で飼うのが一番と思える。せめて、それが無理なら、一日一回は外に出して自由な時間を与えて欲しい。 恐らく、今の大学や研究所の立地条件ならすぐに近隣からの苦情が続出し、すぐに駄目になるだろうが。 また、作業性を重視し、床の隙間を大きく開けた為、足下は非常に不安定で、常に肢間は大きく開いたままで、 下手をするとその隙間に肢を入れて骨折するケースもある。飼育管理人の作業性を考慮するか、犬の居住性を 考慮するかの矛盾点であるが、これも大きな課題である。最後に、馴化の問題であるが、入所して来た犬に対して、 思い入れを強くした為、いよいよ、実験で殺される時には大変、悲しい思いをする。研究者が実験をやりやすくする為、 馴化と言う方法で凶暴な犬も愛情をかけて飼育すれば、次第に大人しく、注射の際も暴れることなくスムースに行う ことが出来るようになる。これは次元が違うが盲導犬を仮親として飼育した人なら、ご理解頂けると思う。 だから、飼育管理者に「実験動物に愛情を持って接して下さい」と言うことはかなり、酷な要求をしていることになるのである。 「可愛がれば辛くなる、可愛がらなければ良心が痛む」この矛盾だけはどうしようもない。 こう言う気持ちを研究者も共有してくれれば、動物福祉の考えも新たな展開を見せると思うのだが、 結果だけを重要視している人には管理者側の気持ちなんて伝わらないだろう。




(ファミリー)

新しい動物実験室の管理をしていた時、最初は一人ぽっちだったのが、 徐々に仲間が増えていった。私と同じ経緯で入ったアルバイト学生。 昼間は実験助手として働き、夜間は学校に通う毎日。 それぞれ、研究者のポケットマネーで雇われている。 私が実験助手の頃は医局の雑用をする女性もいなかった時代だ。 それが、研究室の試験管洗いから、教授の秘書まで、多くの女性が進出するように なった。さすがに、動物実験の手伝いや世話をする人は男性だけに限られたが、 私の過去の便利性が認知されたのか、各講座でもアルバイト学生を雇うように なって来た。それらのバイト諸君が「佐藤ファミリー」として、管理室に たむろするようになり、人生相談から再就職相談、果ては媒酌人まで引き受ける ことになったケースもある。今でも一人一人の顔を思い浮かべることが出来る。 佐藤さんと同じ道を歩みたいと、実験動物の人材派遣業に就職し、ある大学医学部の 施設や製薬会社の施設で頑張っている後輩もいるし、JRの運転手、土建屋さんの 社長になった者もいる。一人の後輩は医学部の施設で現場責任者として、私の夢を 繋いでくれているし、病院の職員として、手術に必要な器材を管理している者もいる。 行方不明になった者もいるが、いずれも私にとっては可愛い後輩であった。 その雰囲気に引きつられて、多くの研究者も管理室に入り浸り、昼食を一緒に 食べたり、夜は病院の近くにある飲み屋で騒いだことも多かった。 その研究者も今は教授になったり、大病院の病院長や部長になって異動して しまった人もいる。一面、暗い雰囲気と思われている、動物実験室のイメージから 程遠いものであった。今でもその頃の研究者と会えば、「佐藤ファミリーの頃は よかったなあ」と言ってくれる人もおり、私にしても一番、充実していた時代では なかったかなと思うのである。 中でも、鮮明に憶えているのは、待望の息子が十二年目で生まれた時のことである。 朝から破水した妻をタクシーに乗せて勤務する阪大病院に連れて来て、すぐに 分娩室に収容されたのはいいが、一向に連絡が入らなかった。 分娩育児部の部長に電話すると「初産だから、時間がかかると思います。 生まれたらすぐに佐藤さんに連絡するから落ち着いて待っていて下さい」と言われた。 それでも、気になるものだから、一時間おきに電話を入れた。相手は笑って答えて いたが、恐らく、しつこい人と思っただろう。一日の仕事が終わり、夕方になっても 連絡が入らなかったので、腰を据えて管理室で待機することにした。 ファミリーの後輩も、「佐藤さん一人だと寂しいでしょうから私達も残ってます」と 言って、慰めてくれた。実験後の研究者も三々五々、帰り支度をする者もいて、 彼らにも「もういいよ、遅くなるから帰って!」と言ったのだが、なかなか腰を 上げようとはしない。午後9時頃になって、ようやく彼らも諦めたのか、全員が 「お先に!」と言って立ち上がって出て行った。そして、その一時間後、分娩室から 電話が入った。「おめでとう御座います。無事に男の子を出産されました!」 本当に舞い上がってしまった。もう、我々夫婦には子供に恵まれることはないだろうと 思っていただけに、喜びはひとしおだった。何度も何度も電話に向かって御礼を言った。 と、その時、急に管理室の扉が開いたかと思うと、「佐藤さん、おめでとう!」と 歓声が上がったのである。何事かと思ったら、後輩達が花束を持って立っていた。 その後ろには、とっくに帰ったと思っていた研究者も並んでいた。 口々に「おめでとう!」「良かったね」と言う言葉の嵐に私は胸が詰まってしまった。 後輩はともかく、いつも私に怒られていた研究者までが心から祝ってくれたことが、 感激と言う言葉では表せない気持ちだった。どのように感謝の言葉を述べたら良いか、 ただ、ひたすら、涙顔で頭を下げるしか出来なかった。 現在は歯学部でたった一人の管理室に座って、仕事をしているが、あの頃を 思い出すたびに、古き良き時代が過ぎ去っていく流れを味わっている。




(動物実験と代替法)

 以前、ある動物愛護運動家に動物実験と代替法についての質問を頂戴した。 私は研究者でなく、一技術者であることをご承知の上での質問だったのでわかっている 範囲内で返事をした。以下にその質問と答えを箇条書きにした。

「移植実験は犬が多く使われていると聞きましたが?」
動物を使った実験は膨大な数字に及ぶので、全てにおいて説明は出来ませんが、 少なくとも移植実験はヒトと生理学的、解剖学的相似性があるから使われている のが現状です。特に肝移植実験ではミニブタが使用されることが多く、比較的、 免疫学的にも拒絶反応が少ないという理由で使われております。 ご存知のように移植実験ではドナーとレシピエントに別れて、臓器提供側の 動物は処分されます。また、このような手術は相当な出血傾向があるので、 輸血用の動物を確保しなければなりません。もちろん、輸血用の動物も全採血 されて、処分されます。ただ、誤解を与えたくないので、付け加えますと、 このような処置はすべて全身麻酔下で行なわれていることを知ってほしいと 思います。良く麻酔も無しで実験をしていると言う事を何の根拠も無く書いて いる人がおりますが、これはまったくの出鱈目であります。 そして、一頭の動物を無駄にしないよう、処分される動物で必要な組織や器官 を貰い受けて研究をしている人もおります。 カナダのある大学では輸血専用の犬がいて、全採血せずに、少づつ採血したものを プールしておき、移植手術の際に使っていると言う所もあります。 このような輸血専用犬は、とっても大事にされており、栄養管理も行き届いて おります。このあたりが日本とは大きな違いで、日本の移植実験でもこのような 配慮が必要なのではないかと私は思っています。

「代替法にはどんなものがありますか?」
皆さんは代替法というのはCPシュミレーションや人工的動物、器官を使ったもの だけと思っていらっしゃるようですが、そもそも、動物実験代替法とは科学研究や 教育、毒性試験、生産等の目的のために動物を用いる方法を、動物を用いない方法 に置き換えること(Replacement)であり、動物使用数の削減(Reduction)や動物使用 に伴う苦痛の削減(Refinement)を含むもので、もともと動物愛護の精神から来てい るものです。ですから、いくら高価だろうが、それが使用数の削減や苦痛の削減に 繋がることであれば、シュミレーション法を用いることに関しては、結果が伴えば 研究者は賛成してくれるでしょう。それにこの3R以外にもresponsibility(責任) と言う項目を付け加えて、最近では4Rと呼ばれています。ですから、実験動物 関係者なりに努力していると言うことはご理解ください。 ただ、残念なのはすべての学会において、このことが反映されているかどうかと 言えば?です。むしろ、あまりメジャーでない実験動物関係の学会や研究会の メンバーが真剣に考えているのに対して、生理学、生化学、外科学、解剖学、 薬学等の学会でどれだけ議論されているか疑問です。 これまでの動物愛護や福祉に関する所属官庁は総理府でしたが、今は環境省が 所管になっているようです。ですから、これらの啓蒙活動は環境省が軸になって 他の学会に働きかけて欲しいと願ってます。

「新薬開発について」
次は失明の原因となる緑内障の実験について、私の経験を述べさせて頂きたい と思います。私は実験外科のことは自分でも経験して来たので、ある程度の答え は出来ますが、新薬開発のことになるとどうも、はっきりと導き出すことが 出来ません。治験と称して、ボランティアを募って臨床試験をしている所もある と聞いておりますが、その実、とても割に合うアルバイトだとも聞いてます。 バイト料がそれだけ高いと言うことはかなりのリスクが伴っていると思いますが、 動物実験で通過した新薬を患者さんに使う前に健常者を使って答えを出すと 言うか、厚生労働省の認可を受ける為の手段と言うか、とても危険な行為の ように思っております。かなり昔の経験ですが、緑内障モデルのウサギを使って 実験をしたことがあります。もちろん、研究主体は眼科の先生ですが、自然発症 の緑内障ウサギの眼圧を計測する技術をたまたま、開発したので、その方法を 元に先生が開発した眼圧降下剤の効果を試す実験でした。 そのウサギを発見したのも私でした。牛眼様病変と言って、眼圧が異常に高い 為に内圧亢進が起こり、眼球が飛び出してしまう病気です。 重度の場合には全盲にもなり、その原因は今でも判らないそうです。 緑内障は高眼圧のため、視神経を圧迫するので、その為の激痛で見えなく なっても良いから眼球を取ってくれと言う患者さんが絶えないそうです。 先生の新薬を投与すると、嘘のように眼圧は下がりました。 そして、激痛の余り自傷行為を繰り返していたウサギも大人しくなりました。 このように、薬の開発も決して無駄ばかりではなく、本当にそれらを欲して いる患者さんの為を思うと、やはり、研究開発は必要なのではと思いました。 他の命を奪い、生き長らえている人間の矛盾点ですが、せめて我々人間に 出来ることは「感謝」の二文字を忘れてはならないことだとつくづく思っています。




(私の夢〜実験動物福祉士)

各大学や大手製薬企業の動物実験施設を維持している所では必ず、「動物実験委員会」や「倫理委員会」なるものがある。 これは国の法律や基準に基づき、自主的に設置された委員会である。構成メンバーは殆どが教官や研究者で、 技術者が委員会のメンバーとして選出されることはまずない。本来なら、現場のことを一番良く知っている者が メンバーになるのが当然だと思うが、残念ながら、技術者はカヤの外である。動物実験委員会では実験動物に 関する様々な問題点を話し合ったり、研究者から出された研究計画書の査定を行い、倫理的に問題があるような 実験に対しては、当事者に意見を打診することが出来る。また、意見を無視して実験を続行して、社会的な問題に 発展するような危険性があれば、その実験をストップ出来る権限を有している。 ところが、実態は研究計画書のすべてを見る訳でもなく、自分の専門以外のことに対しては理解出来ないので、 殆どの実験はフリーパスで行われているのが現状だ。技術者の目から現場を見て、これは問題があると思っても、 委員会で認定された実験には一切、文句は言えない。 また、委員会の構成員でも、もし、異論を唱えたりすれば、今度は自分の研究や部下の研究に関して、問題提起された 場合は困るので、提出書類は形式だけのものになることが多い。米国やヨーロッパ諸国では研究者以外のメンバーとして、 技術者も参画し、技術的、道義的に問題がある場合には委員会で意見を述べることも出来、委員会側もその意見を尊重する。 また、外部委員として、動物福祉活動家や弁護士なども参画し、客観的な立場から実験の科学的、道義的責任を追及出来る システムにもなっている。所謂ガラス張り政策の一環である。 もちろん、しのぎを削る研究内容の骨子に関しては秘密主義であることには変わりは無いが、少なくとも方法論や 必要論については充分、討議されている。それでは何故、日本はそう言うシステムになっていないのか?それは 縦型社会による、権威の象徴で、「たかが技術者のくせに」とか「素人のくせに」と言う言葉が平気で発せられるように、 研究者や教官は特別な人として位置付けられているからだ。権威を守るためには「たかが技術者」などを委員に選出する と委員会そのものの権威が下がると思っているのか、いらぬ口出しをされると実験がやりにくくなると思っているのか、 とにかく、今の日本の現状では実験動物技術者の参画はありえない状態となっている。 私はひとつの夢を持っている。それは日本の実験動物技術者が動物福祉のリーダー的存在となって、社会的認知を 得られるようになることだ。もう、何十年も前から「国家資格認定」の問題を技術者協会で話し合って来たが、 残念ながら、いまだにそれが実現出来ていない。学会主導型の認定試験もあり、その内容も一級レベルでは生半可な 知識や技術では通らない試験である。すでに多くの一級資格者も誕生しているが、政府はこれを認めようはしない。 その理由は色々あるが、監督官庁が文部科学省から厚生労働省、農水省まで渡っているため、どこが責任を取って この認定を行うかでいつも頓挫している。受講者も私のように国立大学の職員もおれば、製薬企業の技術者や 獣医学関係の職員もいる。非常に多岐に渡っているので、リーダーシップを取れる監督官庁がないのが現実だ。 だから、いつまでもこのような制度に頼っていては埒があかないので、いっそのこと、環境省が仮称 「実験動物福祉士」の養成、設置に向けて動いてくれることを願っている。 これは内部職員に限らず、外部からの導入も可能と言う意味で、決してそこの職員でなくても構わない制度だ。 昔、総理府内に「動物保護審議会」と言う組織が誕生し、そこが現在の法律の制定に向けて努力したのも覚えている。 現在も法律の抜本的見直し作業をしているが、その中でも「実験動物福祉士」がどのような施設でも設置される ように義務付けられることが、私の最大の夢の実現である。新しい法律では各自治体の責任で大学等の査察制度も 検討されていると聞くが、もし、この制度が確立されたとしても、査察官がどれだけの知識と実行力を持っているかで、 「動物福祉の基本的理念」に沿って実験が行われているかの判断基準が変わってくる。 それならば、内部に有資格者を置くことで、査察官とも連携が出来、より一層の監督が可能になって来る。 権威に対して、権威で望むのは個人的に好きでないが、今の日本の制度を根本的に変えるためにはやはり、 弱い者の代弁者としての権威に頼らざるを得ないだろう。




*あることが原因で掲示板を閉じることにした。2005年の夏には再び英国に行って  このたび出版した本をアンの墓碑に捧げようと思っている。  それを最後に本編も閉じるつもりであるが、このHPを見てくれた人からは  継続の希望が殺到している。ひとつの区切りとして、定年後は閉じるつもりで  あったが、自身の体調も含めて、アンの母上が高齢であることも配慮しての再訪である。  四十年前に比べると実験動物福祉の考え方が随分、様変わりした。  アンを綴ったこのHPがどの程度の役割を果たしたかはわからないが、少なくとも  これまで一般の人には知られていなかったもうひとつの「命」については  ご理解いただけたと思う。もし、一年後に到ってまだ私のエネルギーが残って  いたならば、読者の要望に答えようと思っている。