「引越しの理由」




 結婚して、府営住宅の5階に住んだ。ちょうど、二年目に雌の子犬を拾った。 その子犬はまだ、へその緒がついたままで、ダスターシュートに捨てられていた。 自宅にあった手術用のゴム手袋に穴を開けて、温めた牛乳を飲ますと、か弱いながら 何とか飲んでくれた。下腹部を濡れガーゼで刺激をすると、小便と軟便もした。

 これなら、助かると思って、数時間おきに牛乳を与えた。仕事を休んで給餌を繰り返した 結果、子犬は自分で牛乳を飲むようになった。名前はマルと名付けた。 マルはみるみる、成長し、家族の帰宅をべランダで待ち侘びるようになった。 無駄吼えはしなかったが、やはり、我々の姿を見ると喜んで鳴いた。

 その頃は棟長をしていたので、鳴き声による住民の苦情が心配であったが、危惧していた 通り、管理人に投書があり、「棟長自ら規約を犯すのはけしからん」と言うことで 仕方なく、家を探すことになった。小さくても良いからせめて、誰にも気兼ねを しない、庭付きの一戸建てが欲しいと夢見たいなことを妻と語り合った。

 ある日、妻とマルを連れて今、住んでいる住宅地の辺りを散策していると いきなり、現地事務所の人が現われて、「いらっしゃいませ、家をお探しですか?」と 問われた。まだ、住宅地として整備されて間もない頃で、実際に住んでいる人も まばらであった。我々は「いえいえ、散歩に来ただけです」と答えたのだが、 事務所の営業マンは「まあ、見るだけでも結構ですから」と強引に建売住宅の一画を 案内してくれた。

 見学を終えて、事務所で話をすることになり、しきりに購入を勧められたが、 当時の給料では到底、買える代物ではない物件だった。それでも、帰る頃には 冗談のつもりで、住宅地内のど真ん中にあたる物件に「佐藤様予約済み」のバラの花を 飾ってもらい、千円だけ置いて来てしまった。

 それからと言うもの、真剣に金策を考えるようになり、取り合えず頭金だけでも 何とかしようと、大学で借りられる最大の借金100万円、妻の勤務先で30万円、 結婚後、貯蓄してあった90万円を足しても、当然、頭金には及ばなかった。 とにかく、それが全財産で、交渉に臨む事になった。

 最初は地元の銀行も渋っていたが、「二人とも公務員だし、何とかしましょう」と オッケーが出た時は万歳を叫んだ。給料の大部分とボーナスが殆ど消える条件で あったが、念願の庭付き一戸建ての生活が始まった。

 まだ、子犬の域を脱していないマルと妻(息子は生まれていない)の家族三人で 新居に引越しをしたが、庭で走り回るマルの姿を見て、無理をして良かったと思った。 そのマルも二十年前に亡くなり、古くなった家も新築した。

 その後、数匹の犬を拾って来て、家族の一員となった犬達も次々と代替わりして、 今はランと言うハスキーの雑種だけになってしまった。相変わらず、鎖もつけず、 狭い庭を駆け回っているが、ベランダの狭い空間でちぎれるように尻尾を振って 迎えてくれた、マルの存在がなければ、今の生活があったかどうかはわからない。

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