「ギター」




ギターを弾き始めたのは随分前のことである。
中学を卒業して、製菓工場に勤めていた頃に、近所の仲間とバンドを組もうと
言うことになった。バンドといっても当時、流行り始めていた
フォークソングやエレキバンドではなく、デキシーランドジャズであった。
数人の仲間がお好み焼き屋さんに集まり、誰がどんな楽器を担当しようかと
話合っていた。もちろん、誰もそれまで楽器なんて触ったことも無く、一体、
どれほどの値段がするものかも知れないのに、夢だけ追っている
いい加減な連中であった。たまたま、その店に来ていた一人の客が、そんな
我々の話の中に割り込んで来て「今時めずらしい連中だね、ジャズをやりたい
とは、どうだね、一度僕のスタジオに来ないか?」と聞いて来た。
ヒゲもじゃで一見、恐持てのする顔の人であったが、恐々、その人の言う
スタジオなるものに行って見ることにした。中に入って見ると、ピアノから
ドラム、トランペット、トロンボーン、クラリネット、ギター、ウッドベース、
テナーサックス、アルトサックス、バンジョーと、あらゆる楽器が置いてあった。
最初に自己紹介があって、何でもその人は元プロのミュージシャンであることが
判った。お名前は松本さんと言って、盲目のトランペッターをリーダーとする
「南里文雄とホットペッパーズ」のトロンボーン奏者であり、ジャズ界では有名
な方だった。現役を引退し、好きな楽器に囲まれて余生を過ごしている方で、
そんな凄い人と出会ったのが私のギター人生の始まりだった。
「好きな楽器を触っても良いよ」と言ってくれたので、仲間がそれぞれの楽器を
手にとって見た。触って音が出るのはピアノとギターくらいで、金管楽器、木管
楽器はうんともすんとも言わない。手ほどきを受けて音が鳴った時は仲間は感動
していた。順番に「君は何をしたい?」と聞かれたので、一番簡単そうなギター
を手にとって、「僕はこれです」と言ったら、「ちょっと手を見せて見なさい」
と言われたので、その人に差し出すと「ああ、この指ではギターは無理だね」と
返事が返ってきた。何でもピアノとギターは指の長さで決まって来るものらしい。
私は小柄だし、それに相応して手も小さい。そこらで演奏している素人バンドの
ギター奏者くらいなら誰でも出来るが、ジャズギターを志すなら諦めたほうが良い
とも言われた。ハモニカなら、三年間も吹いており、どんな曲でも演奏出来たが、
ジャズでハモニカなどはないし、頑張りますから、お願いしますと言って、強引
に頼み込んだ。それからは、毎週の休日に仲間とスタジオを訪れ、少しづつ憶えて
行った。たまたま、職場のゴミ置き場に壊れたギターが落ちていたので、それを
家に持ち帰って毎日、練習したのが良かったのか、コードも憶え、チューニングも
自分で出来るようになった。仲間もそれぞれ、猛練習しているのか、会うたびに
上達しているのがわかる。フルバンドとは行かないものの、一応、ドラム一人、
トランペット二人、クラリネット一人、ウッドベース一人、トロンボーン一人、
アルトサックス一人、そして私のギターで何とか様になるバンドが出来た。
それぞれの担当楽器も松本さんの計らいで、プロの持ち物に比べると安物であった
が三年ローンで各自が購入した。私はピックギターと言う、当時の給料の一年分に
も相当するギターを手に入れて、毎日磨いていたのを思い出す。
デキシーランドジャズのギターはひたすら、カッティングと言って、移動コードを
叩きつけることに徹し、決して目立ってはならない存在であった。
ベースもそうであるが、人よりも大きいウッドベースはそれだけで存在感がある。
隅の方に立ってメインのトランペットやトロンボーンに合わせるのだが、曲の
進行によっては合奏がうまくいくと、とても嬉しい。
ただ、辛い時もあった。浜寺公園と言う野外練習場で真冬に演奏を行った時である。
あまりの寒さで指が切れてしまった。演奏を中止した途端に松本さんに怒鳴られて
しまった。「やる気が無いなら帰れ!」泣きそうになったが、血だらけの指で演奏を
再開した。練習が終わってからドラム担当の三歳上の兄から、「良くやった」と言わ
れた時は本当に泣いてしまった。その兄の指もベース担当者の指も血だらけであった。
一年も経つと、数曲をこなすことも出来るようになり、徐々に天狗になっていくのが
わかる。ジャズ喫茶に行って、プロのバンドの休憩時間に「一曲やらせて下さい」
と頼み込んだり、地区の催しに呼ばれて演奏することも多くなった。
松本さんはそれを良しとはせず、許可無しに演奏会を開いたりしたら、こっぴどく
怒られた。一度、クリスマスにチケットを販売し、市民会館のホールでダンス
パーティを開いたことがあった。レパートリーはそれほど多くないので、
「聖者の行進」を一時間以上、演奏したこともある。それを誰かに聞いた松本さん
から「君達の勝手な行動にはもう、付き合えん、好きなようにしたら良い」と
言われてしまった。ただ、その後個別に呼び出しがあったようで
「プロとして生きていくことの出来るのはベース担当者と佐藤君の兄さんだけだ、
あとは話にならん」とも言われたそうだ。結局はその後メンバーがバラバラになって
しまったが、ベース担当者は本当にプロとなり、兄は大手の会社のバンドマスターと
して、生き残った。私はギターだけのバンドを作ろうと、最初はフォークソング
グループを立ち上げた。フォーク全盛時代に突入し、今の駅前で行われている
ストリートミュージシャンのようなものもあったが、私達はアルバイトを兼ねて、
ヘルスセンターや喫茶店などの施設で演奏を行っていた。
次にビートルズやベンチャーズの時代に突入してからはエレキギターにはまって
しまって、何度かグループを結成し、流行のダンスに合わせて演奏活動をした。
ジャズギターからすればフォークやエレキは簡単なもので、松本さんが言ってた
のは「ある程度の曲なら誰でも弾けるようになるが、ジャズは君には無理だ」と
言うことが後ろめたいながら、理解出来た。
懐かしの思い出としてはこんなこともあった。
まだ、ジャズバンドを解散していなかった頃、松本さんのお声掛かりで、当時、
人気絶頂中だったハナ肇率いるクレージーキャッツの面々が市民会館で演奏を
したことがある。それまでお笑い芸人だと思っていたが、それぞれがジャズで
は日本の五指に入る人ばかりだと聞いてびっくりした。ジャズ誌「スイング
ジャーナル」にいつもギタリストやトロンボーン奏者の人気投票があり、トップ
奏者一覧の上位には植木等や谷啓が必ず並んでいた。
この時も、彼らの演奏中に私は照明係だったので、素晴らしい演奏に興奮して、
カラーライトを回し過ぎて楽譜が見えなかったとあとで、松本さんに叱られたが、
さすがにジャズのプロで、楽譜は無視して即興で演奏していたらしい。
松本さんと谷啓のトロンボーン合奏は綺麗なハーモニーを奏でており、戦後の
米軍キャンプ巡りでトランクに入らないくらいギャラを稼いだと言う話も頷けた。
今も時々、地区福祉活動などで、ギターを抱えて弾き語りなどをしているが、
このようなバックグランドがあったからこそ、皆さんに喜んでもらえる立場に
なったのだと感謝している。松本さんと言う一人の存在と出合ったことで、
何事にも自信の無い生活をしていた自分にギターと言うジャンルを教えて頂き、
光明を得た。それは現在の仕事にもつながっている。
もう少しでクリスマスを迎えるが、今年もまた、どこかで下手の横好きである
ギター演奏を楽しみにしてくれる人がいる。いつもこのHPを訪問してくれる
人にも機会があれば是非、披露して見たいとも思っている。
最後にメリークリスマス&ハッピーニューイヤーと書いて、年内最後の稿を終えよう。



「エッセイ集」トップへ戻る