「投げ釣りとの出会い」トラ編


1949年2月生まれのトラが投げ釣りに出会ったのは18歳だった。当時、付き合っていた妻の亡父が釣り好きで、 磯の上物から底物、ボラ掛けにいそしんでおり、時々、一緒に出掛けた。と言っても傍で見ている だけで、道具の運搬係がメインだった。そのうち、自分でも竿を出したくなりボラ竿の古い物を頂戴し、 当時から流行りつつある投げ竿に改良する為、針金を用いてガイドを作ったり、 リールシートは毎回、義父に借りた磯用のリールをビニール テープで仮止めをした。 何故、磯ではなく投げにしたかと言うと、経済的な理由が一番で、近くでも釣れたからだ。 その頃は堺市に住んでいたので、臨海工業地帯の埋め立てもまだ、高石市くらいまでしか進んで いなかったので、チャリンコでも釣り場まで走って行けた。 ボラ竿の改良投げ竿は元々の長さが8メートルくらいあるものを半分に切って使っていたので、 重いものの、何とか50メートル程は飛んでくれた。義父と最初に釣行したのは高石の浜 で、夜釣りだった。真っ暗な浜に立ち、沖にめがけて投げると、遠浅の海からすぐに魚信があり、 小型のキスが釣れた。朝まで粘ってバケツいっぱいのキスを釣り、満足して帰って来たが、 これが投げ釣りにはまるきっかけとなった。 もちろん、幼少の頃から大浜海岸や出島のワンドでハゼやドンコと呼ばれる小物釣りは経験していたが、 いずれも水遊びの域を出ないものだった。それ以後、小さいながらも大きなアタリがあるキス釣りの 楽しさを覚え、義父は磯、トラは浜とポイントこそ違えど、道中は一緒に行くことが多くなった。 しかし、いつまでもボラ竿という訳にはいかず、安い給料の中から、3、6メートルのグラスロッドを 購入し、リールもダイヤモンドリールと言う物を買い揃えた。初めて手にした自分の道具で、義父の 世話にならず、一度、自分だけで釣り場に行こうと計画した結果、選んだのが南海沿線にある尾崎。 季節は11月の初冬で、初めての挑戦となるカレイ釣り。朝一番の通称「釣り電車」に乗り、尾崎漁港に 着いたが、ポイントが判らず、とにかく人の多い波止先端に行って見た。当時は今より短く、電線があり、 冬季の先端付近は常に波を被っていた。地元の方と思える釣り人が沢山の投げ竿を出していた。 義父とのキス釣りのおかげで、投げることには多少の自信があったので、少し離れた所から、竿を出した。 ところが、一向に釣れないのである。先端の人は良型のカレイをポンポン釣り上げているのに、 こちらはまったくである。初心者の怖いもの知らずで狭い先端に割り込んで投げさせて貰ったが、それでも 一緒で、結局は地元のベテランキャスターには歯が立たなかった。 それもそのはず、自分ではかなり遠くに飛んでいると思っても先客はトラの倍以上飛んでいるし、 仕掛けも見たこともない手作りだし、何よりもエサはトラがこれまでに使っていた石ゴカイでなく、 もっと太いイチヨセと言う物だった。「兄ちゃんの道具ではカレイは無理やな」と言われたことがずっと 記憶に残り、「絶対、このおっさんらに勝ってやる」とその時は真剣に思った。 その後、箱作でも胸にワッペンをつけたキャスターがトラの頭ごなしに超遠投でポン級のアイナメを 次々とゲットして行くのを目の当たりにして、投げ釣りの奥の深さを身に沁みて経験させてもらった。 動機は不純だが、トラの投げ釣りのスタートはまさに「復讐」の二文字からと言えよう。 とにかく、遠投の練習と、夜学から帰って来ると自宅で素振りをしたり、休日には竿と錘だけを 持って海岸で一日中、振り回していた。道具も、給料の大半を注ぎ込み、新製品が発売されたら、 すぐに購入した。それでも足りない時はボーナスを注ぎ込み、ひどい時には全額を使って当時では 最高峰と言われた竿も購入した。それを持って、近くの海岸は言うに及ばず、投げ釣り大会と銘打って いる一般参加の大会には片っ端から出場した。自己流ではあったが、何とかワッペンをつけた連中と 並んでも引けを取らないくらいの飛距離が稼げるようになり、尾崎漁港 でも箱作でも、そこそこの 釣果を上げるようになった頃、友ヶ島で大会があり優勝した。22歳の時である。 それがきっかけで釣り雑誌や釣り新聞に釣行記を書くようになり、いつしか常連投稿者となり、 3年が過ぎた。結婚してからもずっと投稿していたが、同時に住んでいた住宅地の小中学生の子供達 の親から、釣りクラブを作るので顧問になって欲しいと言う要請があった。 殆どが訳ありの子供達で、ガキのくせにタバコを吸うわ、バイクを乗り回すわで、どうしようもない 連中だった。一度、トラの家に集 まってもらい、顔合わせをした。 数人の子供達から「おいやんは毎週、汚いチャリンコに乗って釣りに行ってるの知ってるで〜 ワイらも釣り好きやから、時々尾崎や樽井に行ってるねん」と言われた。 トラも「お前ら、本当に釣りするんやったら真剣にせんとあかんぞ、どんな遊びでもルールとマナーが あるから、それを約束せんかったら、即、解散や、それでもクラブ作りたいんか?」と言うと、 意外とすんなり、「作りたい」と言う答えが返って来た。 同じ作るなら、投げ釣りでは日本一の会員数とベテランキャスターが多くいる全日本サーフに登録した ほうがやる気を出すだろうと言うことで、ジュニア会員として登録した。 名称は府営前畑住宅に住んでいるクラブなので、前畑フィッシングクラブ、通称MFCとした。 途中でかっこ悪いから、クラブ名を変えて欲しいと言う要請があったので通称はそのままで、 モングレルフィッシングクラブ(雑魚釣りクラブ)とし、総勢20名の子供達のクラブが結成された。 会長、副会長は中学生を中心にして、末尾の会員まで 全員、何かの役職を与えた。 釣果計測部長や賞品購入部長、夜食調達部長などもあった。 会則や毎月百円を徴収する会費なども決め、連盟登録料となる年会費や、保険料、ワッペンやベスト などはトラのボーナスで賄った。最初、杞憂していた連中であったが、会を起こして見て、 彼らの行動と進歩には目を見張るものがあった。釣り大会やキャスティング大会で屈辱的な大敗を 喫すると、次回は絶対、入賞しようと、努力してくれた。キャスティング練習会も暇があれば行って いた。彼等と同年齢だったのがいずれキャスティングの日本記録保持者となる山本雄三君や現在、 別な連盟を作って活躍している木村君らだったが、特に彼等の活躍には刺激された連中も多かった。 交通手段は電車だけなのと経済的な問題で、ジュニア会員は遠征大会は殆どボイコットしたが、 泉南方面や淡路など近郊で行われる大会には必ず参加した。 トラもクラブの代表として、堺市民会館で毎月行われる理事会には必ず参加して、先輩クラブの 指導者とも仲良くなったが、その頃のクラブで残っているものは現在では殆ど少なくなった。 会報「投げ釣り」にも弱小クラブの本音を時々、書いたが、当時の副編集長(編集長は連盟会長の小西氏) であった石浜氏なんかは随分、小生の文章に肩入れして下さり、何度も掲載して頂いた記憶がある。 そんな記事の中で「くたばれベテラン!」と題した原稿だけは何故か今でもはっきり覚えている。 時々、テレビ番組に出演していた会長率いるクラブが泉南の大会で、先に入釣して竿を出して いる我々のクラブの場所に大挙して押しかけて、ポイントを占拠してしまった例があり、 たまたま、その時はトラは欠席していたので、後から会長のY君から顛末を聞いた。 場所は淡輪一文字でこれまでも、ここではトラ自身も大物を釣って数々の入賞を果たしている。 トラがある新聞社主催の釣り大会で貰った賞品のゴムボートで会員が渡って竿をだしていた。 すると、沖からクルーザーが来て、横付けするなりどっと大人の団体が渡って来て、 物も言わず子ども達の竿を無視して投げ始めた。中には子供のリールを巻いて片付けてしまった人も いたと言うことであった。小、中学生にしたら大人の団体の威圧感は相当な物だったと思う。 そのクラブ名も聞いてあったし、理事会で「ある有名なクラブさんからこのようなことが ありました。弱小クラブだからと言って馬鹿にしないで欲しい!、それにうちの連中は 全員、ライフジャケットをつけていたのに、そのクラブの方は誰もつけていなかったと 聞いている。ベテランほど謙虚な気持ちを持って欲しいし、海防の重要性を再確認する 必要があるのではないか」と苦言を呈した。それだけでは腹の虫が収まらないので、上記の 題で原稿を書いたと言う顛末である。 キャスティング事務局長の前田氏や元連盟会長で旧雑誌釣りサンデー会長の小西氏と仲の良かった 大阪投友会の故、楢崎氏や貝塚サーフ会長の故、見学氏、あすなろサーフ会長の原田氏のような大先輩も、 随分、我がクラブを応援してくれたのが懐かしい思い出として残っている。 そんなクラブも仲間の交通事故で二名を亡くしたのがきっかけで解散したが、今でも当時の連中が 奥さんや子供さんを連れてトラ宅に遊びに来てくれるのが嬉しい。 その後、ある職域クラブのキャスティング指導部長として、呼ばれ、十年近く共にしたが、彼らも バブル絶頂期を迎え、仕事に追われる中で、一人二人と会員が激減し、解散を余儀なくされた。 ちょうど、その頃に待望の息子に恵まれたのを機会にトラも会員を脱退し、元の一匹狼としての 投げ釣り師に戻って行った。一緒に釣行した息子も成長し、トラとの釣行も途切れがちになった頃、 パソコンがブームになった。ヨチヨチながら、覚えたパソコンで各地の釣りHPに出入りしている間に、 自然と一匹狼が集るようになり、OLMと言う聞きなれないものに参加することになった。 久し振りの集団の釣行であったが、ルールに縛られない自由な連中との釣行は楽しく、たちまちの うちにファンとなった。色々な仲間との別れと出会いを繰り返し、現在はGC「外道キャスターズ」 と言う楽しみを釣りに行く仲間と交流をしている。年齢や経験、社会的立場を度外視して、本当に 投げ釣りが好きな仲間が集まって子供のようにはしゃげる世界は他にはないと思う。 釣りは一本のラインによって、魚との対話を図ると言う人もいるが、その通り、基本的には孤独な 遊びである。でも、一度、本当に信頼のおける仲間と時間を共有したら 「魚釣りは孤独」と言う言葉はどこかに消し飛んでしまう程の魅力も兼ね備えているのである。 これから、投げ釣りを始めようとする、貴方、すでにしているが、漁師のごとく、魚だけを目標に している貴方、仲間なんかいらないと思っている貴方、一度、「何も引かない何も足さない」もとい、 「規約もなーんもなし」出入り自由のGC仲間と一緒に釣行して見ませんか? -------------------------------------------------------------------------------- そ〜編 釣りというのを初めてしたのは、中学1年の夏でした。堺と言えば古墳が沢山ありその中でも、 チャリンコで10分の距離にある「にさんざい古墳」が主な釣り座でした。 この古墳は「前方後円墳」です。確か持っていた竿の名前は「野鯉」、メーカー名は忘れました。 色は朱色だったか、なかなか渋い色で個人的にかなり気にいってました。その竿と練り餌をもってよく通いました。 手のひらぐらいのフナが良く釣れ、釣りの楽しさをたたきこまれ<ました。ある時期になるとフナのサイズが 小さくなり、当然引きも鈍くなったので振り出し竿の根本のところを取って、2段目のところを持って釣って みました。そしたら、引きが強烈になり「なかなか、ええアイデアやん」と悦に浸っていたのが懐かしく 思い出されます。中学1年の3学期にやってきた転校生と仲良くなったんですが、そいつが投げ釣りをしてたんです。 「いっぺん、投げ釣りいかへん?」と誘われ「何や それ」と聞いてみると 「海でする釣りや!」「へー、でも道具持ってへんぞ!」とそ〜 「俺のん使え!」ということで、投げ釣りに連れて行ってもらいました。 確か場所は、当時泣く子も黙ると言われた「岬公園 裏」でした。 投げ釣りしたこともなく、そこがどんなところかも知りません でしたが友達の言われるままに 初キャスト!たぶん、投擲距離は30メーターほどだったと思いますが 「なんか、この釣り楽しいやん!」。当然砂地に届きませんので、釣果なんぞあるわけありませんでした。 そのときから、○ボ(懐かしい)街道まっしぐら!中学生なので、小遣いも少なく2ヶ月に1回の割で当然電車釣行。 行った場所は良く覚えていませんが、和歌山方面ばっかりでした。 「でっかい、カレイちゅーのんを釣って見たい」と友達に言ったら 「そらー、神島やで」と。「それ、どこや?」の問いに 「鳥羽の沖」。近鉄やったらおじさんが勤めてるからタダ券もらえる。 「ほんなら、きまりや!」で25年前に神島に渡りました。今思えば、少し無謀だたかな。 エサは高価なマムシなんてとても買えません。アオイソメと塩マムシ。 塩マムシは確か輸入もので、真空パックされていたように思います。 神島の釣果は私がウチ向きで28センチぐらいのカレイを1枚でした。 中学3年になると「釣り禁止令」が出ました。一度止めてしまうと、邪魔くさくなって釣りから段々遠のきました。 それから、22年後の秋に知り合いから「太刀魚 釣れてるから一緒に行かない?」と誘われました。 「釣りか〜、久しぶりやな〜行きますわ!」で高砂に釣行。 知り合いに竿と仕掛けを借りて、エサを付けて海にキャスト。「ちゃんと、投げれるやん」と知り合い。 忘れてないもんですね〜、電気浮きが沈んであわせるとブルブルという感覚。 長年封印してあったものが、目覚めてしまいました。 早速太刀魚用の竿を購入し暫く高砂に通いました。 釣り具屋の店内をうろうろする回数も増えたころ、投げ釣りコーナーがあるのに気づく。 「まだ、投げ釣りってあるんやー」(怒らないでね!)竿を手にとってみた。 「竿が、全然違う。かなり進化してる!」「1本 買ってみよう」とエアロ・キャストを購入。 買ったら使いたくなるのが人情。正月休みに「和歌山 北港魚釣り公園」に釣行。 キス、チャリコ、おまけにカレイまで釣れた。ボーキ・モードが炸裂!!。 それから、3年で現在に至っております。 -------------------------------------------------------------------------------- ムラ編 ムラの大食い、もとい、小物釣り歴です。 小学2年の時に大阪市内から箕面へ越してきて、溜池が多かったので自然とフナ釣りを始める。 竿は始めは1本300円程の細竹そのまんまの竿。その後振り出しののべ竿へグレードアップした。 放課後はほぼ毎日近所の溜池へ。エサはミミズ、うどんにさなぎ粉をまぶしたやつ、マッシュポテトなど。 当時観光用の馬が近所で飼われていて、そこへ行けば幾らでもミミズが採れた。 まぶな釣りからヘラブナ釣りへ大型化せず、次第に小型魚をちまちま釣ることに興味が移行し、 オイカワ、モツゴ、タナゴ、ヨシノボリ(どんこ)まで対象魚は小型化していく(笑)。 極小とんがらしウキの下にハリス0.2号でタナゴバリやハエスレを付け、サバ虫 (確か1袋50円で数日放置しておくと袋の中で羽化してハエになっていた)、 ドブで採った赤虫、ご飯粒を爪で割って付けていた。 この頃の溜池にはブルーギルやバスはまだ少なく、夕方になるとオイカワがイワシのように 群れて水面をはねていた(味もイワシみたいで、天麩羅やフライで食べていた)。 クワガタやザリガニ、タナゴを捕まえては大阪市内のペットショップへ売りに行っていたのもこの頃。 学校の長期休暇の大半は母方の田舎である淡路島松帆で過ごしていた。 岩屋ポートビル前や松帆赤丸(明石海峡大橋の橋げたの前身の小さな突堤)でサビキ釣りやガシラ釣り、 投げ釣り(と言っても飛距離は30mぐらい)に興じていた。 箕面からも年1-2回、垂水漁港へ電車釣行してサビキ釣りをしていた。 一度だけ真冬に淡輪へ電車で遠征したが、手の平カレイが1枚釣れたものの、ビニール袋に入れていて 波止の猫に取られた記憶がある(悲)。 中学に入ってからは、あまり海釣りはしなくなった。 溜池でバスやブルーギルが増えはじめ、たまにカエルやミミズや安ルアーで釣ったりしていた。 バスは全て泥を吐かせてフライにして食べていた。 ブルーギルも数回食べたが不味かったので以来食べていない(笑)。 高校では柔道部に入ってしまったため、練習の無いときはくたばって寝ていた。 大学は広島で、宇品周辺でサビキ釣りやメバル釣りなど小物ばかり釣っては食べて過ごした。 学生生活も途中からバイトと麻雀とパチにドップリはまり(笑)、釣りから遠ざかる。 それでもたまに倉橋島への晩秋の大サバサビキ釣り、溜池でバスやナマズを釣っては食べる程度の釣りをしていた。 学生寮や安下宿を転々としていた為、個人用の風呂は無く、バスナマズに泥を吐かせる為に 寮や友人宅の風呂桶に水を張って、勝手に泳がせていて、当局や友人に怒られたことも今となっては楽しい思い出(笑)。 卒業後、7ヶ月ほど石垣島で栽培漁業のバイトをして過ごす。 釣りと酒しか娯楽が無いので、毎日夕方から釣りをして過ごす。 エギでイカ釣り、コアジ泳がせでオニヒラアジ(大きいのは80cmぐらいあった)釣りなど。 そのまま石垣島に住みたかったが諸般の事情で大阪へ帰って来て家業を継ぐ。 その後ネットを始め、「浜ちゃんの投げ釣り」へ無謀にも岬公園裏掌カレイ釣行記をカキコをしてトラさんに歓迎される。 「えらいところにカキコしましたな。もうこれで毎日カキコせずにおれなくなります」と書かれ、 「そんなこと有るか」と思った(失礼)が、果たしておっしゃるとおりになりました(笑)。 投げ釣りを再開しようとして、釣り具屋へ行き、投げ道具の変わり様に唖然とする。 冬の釣りは苦手でしたが、カレイ釣りの面白さに目覚めさせられ、下手なりにカレイを釣る夢ばかり見ています (でもいつも釣れるのはカレイ以外のおかず)。 大物を狙っても狙わなくてもおかずしかよう釣りませんが、皆様今後とも宜しくお願いします。 -------------------------------------------------------------------------------- ハコ編 投げ釣りを始めて5年になりました。 最初はダボさん親子のように、次男坊といっしょに、池や海へ釣りに出かけて いたのですが、息子が投げ釣りをしたいというので、本屋へ行って いろいろな投げ釣り関係の本を買い勉強を始めました。 最初の実戦は、和歌浦のキス釣りでした。 私はボウズでしたが息子は 大きなキスを釣り、2人で大喜びしました。 その後も2人で釣行したのですが、息子は中学生になると部活が忙しくて、 釣りは私1人で行くようになりました。  釣行先は、紀ノ川、印南、串本でした。この場所は全て雑誌で紹介されて いた場所でした。それでもいろいろな魚が釣れ、名前もどんどん覚えて いきましたが、まだ自分で仕掛けを作ることが出来ませんし、人前で 竿を振ることも恥ずかしくて、ほとんど隠れて釣りをしている状態でした。 漁船に三脚ごと持っていかれたり、堤防に竿をぶつけて折ってしまったり、 雪のテトラの上ですべって、お尻で竿を折ってしまったり、まったく 散々な釣りでした。 その後、仕事の関係でナビちゃんと出会い、それをきっかけにトラさんをはじめ、 GCの人達と釣りに行くようになったのが、私の本格的な投げ釣りの 始まりでした。本物のキャスターを実際に見るのは始めて。豪快な釣りに びっくりしたほどです。とにかく、皆のお荷物にならないようにと必死でした。 こそこそ釣ってると、こっちで釣れと言われましたが、とにかく恥ずかしくて。 先輩達が、ワイワイ騒いでる時がゆっくり投げれる時でした。と思ってたら 大間違い。酒を飲んで騒いでいても突然、右から何番目の竿あたり!! ちゃんと見ているのです。さすがですね。この時は脱帽でした。 先輩達の持ち物、仕掛け等を見せてもらったり、1セットもらったりして 自分なりの仕掛けを作ることができるようになると、釣果もだんだん良くなって きました。釣り場も覚えて、ますます投げ釣りに入りこんでしまったのです。 去年は大きなスズキや、30オーバーのカレイ。今年もタイ、カレイ、キスと 順調に目的の魚を釣っています。小物釣りしかしませんが、海に向って 投げてると気分も爽快。夕方には真っ赤な太陽を、夜は満天の星を眺め ての釣りは最高です。(時にはムチャクチャな日もあります) これからも、長く投げ釣りをしていこうと思っています。 GCのみなさん宜しくお願いします。 -------------------------------------------------------------------------------- ダボ編 宮崎県最南端の小さな町で生まれた私は、小学校に入った頃から釣り、というより 川遊びの一環でやってました。当然、糸と針以外は自然からの調達でした。(貧) 狙いは、鯉でしたが上がってくるものは、ハエ(おいかわ)小鮒といった小物ばかりでした。 中学になると、部活の合間に近くの港まで行き海釣りを経験する。と言っても、 川釣りの延長で、竹竿での釣りで主にホゴ(ガシラ)やサヨリなどを釣っていました。 その後、万能竿?を仕入れて投げ釣りや、磯釣りに出かけましたが釣れる魚は、やはり ホゴだけでした。大阪で投げ釣りを始めたのは、長男が生まれた昭和61年の年末から です。嫁の実家に里帰りしてて、暇そうにしてたら、「暇だったら釣りにでも行ったら?」 との言葉に一も二も無く反応していました。今では、到底聞くことのできない貴重な お言葉でした。海の近くに行ったら道具とか餌とか売ってあるやろ。と思い、 兵庫県高砂市の関電波止まで行きました。セットで1980円の道具を買い、餌は 石ゴカイ500円を買って久々の釣りでした。釣果は20cm前後のカレイ4枚・・・・ これがいけませんでした。ドップリとはまってしまいた。 いつのまにか、竿が増え、またリールが増えていきどんどんエスカレートしていきました。 でも、いつも一人で釣行していたんで、道具の向上には(勿論腕も)目覚めず安価な 物ばかりを使い、従って釣果もそれなりのものでした。 2年ほど前までは、ずーっと単独釣行でした(子連れは別)。その年の5月だったと 思います。いつものとおり一人で夜釣りしていると、後から来た4〜5人の集団が、 釣りを始めたかと思うとすぐさま宴会を始めた。そのうちにその中の一人が、 ぶらっと歩いてきて「釣れますか?」と尋ねてきました。いつもならそこで終わる話 なのですが、延々と自分たちの話や、世間話、さらには、「星空が綺麗でんな〜」と 訳の分からない話などをして「まっ、まっ、こっち来て一緒に飲みなはれ」と半ば 強引に濁り酒をつがれました。GC(当時の○ボ)との衝撃的な出会いでした。 その後、トラさん家に拉致され、ボウズ薬(コーヒー)を盛られからは、釣行の 度にボウズ街道まっしぐら(嘘)です。 今までは一人での釣行ばかりだったんですが、その薬を飲まされてからは誰かと 一緒でないと必ずボウズになるようになってしまいました(嘘)。 さあ、このページを見られたあなた!あなたは、明日からボーズが続きます(大嘘)。